日本の社会を変えるのは「サブカル」? 資本主義社会の“その先”は……
公開日:2018/4/25
弟から、高齢の母が元気なうちに介護しやすいようリフォームするために、実家に残してある私の私物を引き取ってほしいと連絡があり行ってみたら、アニメの下敷きなどの入ったダンボール箱が山積みだった。ただ捨てるのも勿体無いのでネットオークションを覗いてみると、今や使い道の無いテレホンカードに特定のキャラクターが描かれているというだけで、高値がついていた。ファンではない人からしたら馬鹿馬鹿しい価格に思えるかもしれないが、しかし何に付加価値を見出すかは人それぞれだろう。
ポスト資本主義として「価値主義」などが台頭してきている昨今、『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(大澤真幸/KADOKAWA)が面白そうに思えて手に取ってみると、早稲田大学文化構想学部において著者が行なった講義をまとめたもので、哲学・思想の領域だった。思いがけない本との出逢いが好きな私としては、これは嬉しい誤算。
全四部に分けられているうちの第一部では、『シン・ゴジラ』を題材に現代の若者の公的意識が高いことが示されていた。選挙での投票率の低さから、若者は政治に関心が薄いと云われがちだが、内閣府による「社会意識に関する世論調査」のデータを見ると、2012年頃から「社会の役に立ちたいと思っている」20代の若者の比率が高まっており、これはやはり前年の東日本大震災の影響だろう。主人公が単独で活躍するのではなく、「オタク的メンタリティ」を持った登場人物たちが社会的使命を負ってゴジラに立ち向かう構図は、「日本人は、今、自信を持とうとしている」という流れの中にあると著者は述べている。
第二部に移ると、著者は哲学者のカントの考えた「悪の三類型」を手がかりに『デスノート』を読み解いてみせる。一番目の悪は意志が弱いために「欲望に負けたり、快楽に溺れたり」と一番簡単で、反対に二番目の悪は子供を躾けるなどと言い訳をして暴力をふるうのを正当化しようとし一番複雑だという。しかし、『デスノート』の主人公は「ルールさえ守っていればいいだろ。どんなことをしても」と考え、「正しい義務への内発的動機がない」点を三番目の純粋な悪と著者はリンクさせ、さらにカントも想像しえなかった善と悪が表裏一体どころか完全に一致する「第四の悪」を提示していて興味深い。
表題にもなっている資本主義は第三部に集約されており、ここでは『おそ松さん』を例に挙げ、ドイツ語の「ベルーフ」という概念について語られる。「神からの呼びかけ」を意味するこの言葉は、日本語の感覚では「天職」に近いもので、資本主義は単なる儲け主義ではなく宗教的な使命感を持って成されるのだとか。しかし『おそ松さん』の最終回近く、主人公に野球大会への出場が認められたという差出人不明の手紙が届いて、決勝戦へと勝ち進んでおきながら結局負けてしまい、神に呼びかけられることを熱望しながら過ごしてきたニートの主人公が、「本当は呼びかけられていなかった」という残酷な結末を迎える。
そして、『君の名は。』と『この世界の片隅に』を対比させた第四部になると、観た人の想像力が試される。前者は物語の中心となる恋愛に彗星の衝突から町を守るという必然性は無いのにもかかわらず、主人公の男女は何者かに呼びかけられたかのように使命を負う。一方、後者は原爆投下という現実の中心となる舞台で主人公は生きているはずなのに、その題名通り世界の片隅に自分という存在を置いている。これは、「ローカルな個人とグローバルな普遍が結びつく」ということでもある。
根拠の無い自信を持っていた子供の頃の私が、もう少し未来に想像力を持ち、玩具やキャラクターグッズを買っていなければ、もっと貯金ができていたのではなかろうか。いや、高値で売れそうな物は、オークションに出品してみよう。もしかすると、先行投資していたのかもしれないし。
文=清水銀嶺