23年間、遺族にも知らされなかった真実…なぜそのPKO隊員はカンボジアで命を落としたのか
更新日:2018/4/26
1993年5月4日。カンボジアで日本人警察官・高田晴行さんが殺害された。享年33だった。高田さんはUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)に派遣され、PKO(国際平和維持活動)に従事していた。現地で文民警察官として働いていた最中の出来事だった。当時、カンボジアではUNTACに反感を抱くポル・ポト派の抵抗活動が過激化していた。しかし、報道では「正体不明の武装派勢力による犯行」とだけ伝えられた。
一体、現地では何が起きていたのか? 高田さんの死は避けられないものだったのか?2016年、事件の検証はNHKスペシャル『ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~』としてテレビ放映される。番組の内容を踏まえて、放送では収まらなかった証言、考察を盛り込んだノンフィクションが『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』(旗手啓介/講談社)だ。
1970年代から、カンボジアは壮絶な内戦状態が続いていた。アメリカの支援を受けたロン・ノル政府軍、北ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、そしてポル・ポト派と亡命政府の連合軍が全面戦争を起こしていたからである。1975年、ポル・ポト派がプノンペンに侵攻すると、原始共産社会への強制転換が実施される。全国民はポル・ポト派が定めた集落へと移住させられ、財産を没収されたうえでの強制労働を義務付けられた。そして、知識層を中心に国民の虐殺も開始された。虐殺の犠牲者は100万から200万人といわれている。
1991年、パリ和平協定の調印によってようやくカンボジアの内戦は終わりを告げる。そして、UNTACによるカンボジアの民主化が始まり、国際社会への貢献をPRしたい日本も現地に自衛隊を派遣することになった。日本にとっての「史上最大のPKO」である。しかし、憲法第九条への抵触が国会で取り沙汰されたため、文民警察官75名の同行も決定される。日本政府には、丸腰の警察官も送れば自衛隊アレルギーも緩和されるとの読みがあったのだ。
かくして1992年10月、山崎裕人隊長の指揮下、75名の警察官は海を渡り、カンボジアに到着した。国際大使館勤務を希望していた高田さんは、夢への足がかりとしてPKO部隊に志望したのではないかと思われる。アンピル村の警察署で、隊員たちは治安維持活動や選挙の指導といった業務をこなし始めた。しかし、間もなく、日本側が予想していなかった事態が次々と起こっていく。ポル・ポト派の武装勢力が「停戦違反」を犯し、アンピル周辺で戦闘行為を行うようになったのだ。当時の隊員の日誌を読むと、かなりの頻度で銃声が聞こえているのが分かる。
1993年になるとポル・ポト派の活動は過激さを増していく。ついに、隊員たちの目の前で殺戮行為が始まった。そして、隊員たちをターゲットにした強盗も発生する。この時点で、隊員たちはPKO協力法を犯し、護身用の小型拳銃を身につけるようになっていた。もちろん、統率の取れた武装勢力相手には気休めでしかない。そして5月4日、高田さんたちは運命の日を迎える。
高田さん殺害の現場に立ち会った川野邊警部(当時)には確信があった。犯人である武装勢力の中に、見知った顔がいたこと。彼がポル・ポト派の兵士だったこと。しかし、いまだ日本政府は高田さんの命を奪った犯人を「正体不明」としている。ポル・ポト派の犯行と認めてしまえば、当時の戦況の説明不足、PKO隊員の防衛手段の不徹底が問われてしまうからだ。20年以上の年月を経て、川野邊さんはポル・ポト派の司令官だったニック・ボン准将を探し当てる。川野邊さんが目にした真実は、ぜひ、本書で確認してほしい。
自衛隊と憲法九条については日本国内で繰り返し議論の的になってきた。しかし、「議論のための議論」で終えるのではなく、すでに高田さんのような犠牲者がいることを踏まえて我々は問題に向き合うべきだろう。それが、死者の無念に報いるせめてもの方法だからだ。
文=石塚就一