90年代、小学生の「ぼく」を見ていた「あいつ」の正体は……『岡崎に捧ぐ』の山本さほが新境地!?

マンガ

更新日:2018/5/7

『いつもぼくをみてる』(山本さほ/講談社)

 脱力テイストのほのぼのとしたイラストと、共感ありまくりなエッセイ風の読み口で人気を博している山本さほさん。出世作となった『岡崎に捧ぐ』では80年代カルチャーを交えた旧友との思い出、『無慈悲な8bit』では大好きなゲームをテーマに描き、30~40代のノスタルジックな感情を鷲づかみしてきた。

 ところがヤングマガジンサードで連載中の『いつもぼくをみてる』は、少し異なる様相を見せている。

■“氷河期”と“ゆとり”の間に生まれた少年の回想録

 物語は現代、ある男性が90年代の子供の頃を回想するシーンから始まる。きっちょんというあだ名で呼ばれていた彼は、ごく普通の家庭に生まれ育った小学生だった。

advertisement

 学校が終われば、友達と遊びに明け暮れる日々。その日もきっちょんは遊ぶ約束をしていたが、困ったことに所持金が心もとない。この日は駄菓子屋に新作のカードダスとファンタが並ぶというのに! 買えなかったら仲間ハズレに遭うかもしれない……。思い悩んだ挙句、きっちょんは家族に土下座までして拝み倒したものの、空振りに終わってしまう。

 途方に暮れていた彼は、近所の神社で100円玉を見つけて大喜び。後ろめたさを感じつつポケットに入れると……。境内の片隅でひとつ目の不思議な生き物が、じっとこちらを見ているのだった。

■子供たちに付きまとう「あいつ」と罪悪感

 物語の中心にあるのは、無垢な子供心にチクッと突き刺さる「罪悪感」だ。

 ほんの出来心でしたイタズラが思わぬ事故を生むも、怖くて名乗り出られなかった時。道端で飛べなくなった小鳥を箱に入れて保護したつもりが、逆に死なせてしまった時。本当は「謝らなくちゃ」「酷いことをした」と自覚しているのに、心の中で「だって」「でも」と言い訳してしまう。……誰しもそんな後悔の念、ひとつやふたつ、あるのではないだろうか。そんな解消されない小さな澱は、どんどんと積み重なって、大人になっても忘れられない罪悪感として燻り続けることがある。

 境内にいた「あいつ」は、その後もまるで罪悪感そのものを表すかのように、子供たちの“その瞬間”を見つめていた。「あいつ」の存在が気になって仕方がないきっちょんは、いつも公園にいるカイテルさん(無職のおじさん)や親友の星野とのやり取りを通じて、何となくその正体に気付き始めるが……。

 そんな中、彼は公園で見知らぬ少女と出会い、星野の過去にまつわる意外な噂を聞いてしまう。物語は妙にきな臭く、予期せぬ方向へと動き出すのだった。

■山本さほが描く子供たちの不穏な世界

 絵柄はいつもの軽快なタッチ。そこに90年代カルチャーを挟んで読者のノスタルジックな共感を誘い、笑いを交えながら楽しく読み進められる。山本さんらしい読み口は健在だ。しかしながら、『いつもぼくをみてる』が他の著作と決定的に違うのは、エッセイではなく創作系のストーリー漫画であること。山本さんが描いた長編作品の中でも初めてではないだろうか。エッセイとは根本的に異なるだけに、1巻時点では物語の着地点が予想できない。

 本作を初めて読んだ時、自分はノスタルジー繋がりでふとスティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』と『IT』を思い浮かべ、ばつの悪い気分になった記憶がある。まさかペニーワイズと比べるわけにはいかないが、「あいつ」は依然、不思議で不気味な存在として謎めいたままだ。そういえば第12話の図書館のシーンで、きっちょんが手を伸ばした本棚には、宮沢賢治と宮部みゆきの著作が並んでいた。作者が思い描く物語の方向性を示唆していると考えるのは行き過ぎだろうか。

 どこか不穏な空気を漂わせながら、行く末の見えない小学生の90’sライフ。山本さほさんの新境地を、今後も見守っていきたい。

文=小松良介