〈ヨシタケシンスケ×糸井重里〉『りんごかもしれない』は、りんごを一度も見ずに描いていた! 「絵本の面白さ」って?

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更新日:2018/5/2

 絵本専門誌『MOE』の創刊40周年を記念して、現在、銀座・松屋で「島田ゆか・酒井駒子・ヒグチユウコ・ヨシタケシンスケ・なかやみわ 5人展」が開催されています(5/7まで)。それぞれの作家の「小部屋」にわかれた空間には約200点の原画がズラリ。そのやわらかな世界は、絵本の多様な魅力と可能性をじんわり伝えてくれます。

 このほど展覧会のスタートにあわせて、ヨシタケシンスケさんと糸井重里さんの対談イベントも開催されました。実は『MOE』(2017年4月号)の「ヨシタケシンスケ特集」で初めて出会ったというおふたり。糸井さんのするどいツッコミで明かされる、ヨシタケさんのユニークな素顔に注目です。

■目の前のものを描かないと決めてから、絵が描けるようになった

糸井重里氏(以下、糸井):『MOE』という雑誌のジャンルを何と言ったらいいかわからないんですが、かわいいかと思ったらちょっとこわいのもあって。「絵本作家」というジャンルで一括りにしてはいけないような才能がたくさん詰まっていて、大好きなんですよね。

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ヨシタケシンスケ氏(以下、ヨシタケ):『MOE』が「絵の上手さ」みたいなものでできていたら、僕なんて入ってないです。懐が深いですよね。それがそのまま実は絵本というものの懐の深さでもあるというのが最近わかってきました。絵本ってもっと「ちゃんとしたもの」だと思ってましたから。

糸井:たしかにどこか教育のにおいがするっていうか、「何かを感じ取りなさい」と強制するようなところがあるというか。

ヨシタケ:絵本は何かを与えなきゃいけないもので、まさか自分に描けると思っていませんでした。しかも僕は色をつけるのも下手ですし、絵もちっちゃいですし。

糸井:ちっちゃいっていうのは、展覧会を見るとすごくよくわかります(笑)。

ヨシタケ:僕はA4の紙が横に置ける場所があれば絵が描けちゃいますから。たまに仕事部屋で取材とかがあるんですが、ほんとに普通の部屋すぎて申し訳なくて。なんか絵本作家のアトリエって、絵の具がちらばっていて絵の具だらけのエプロンをして出てきてほしいみたいなのがありますけど、そもそもアトリエじゃないですし。

糸井:その分だけ頭の中にひろーい世界があるわけですね(笑)。

ヨシタケ:前向きに捉えていただくとそういうことで…(笑)。

糸井:たとえば小学校のクラスで似顔絵を描いてウケただとか、目の前で絵を描いて人に喜ばれた経験はありました?

ヨシタケ:僕はないんですよ。

糸井:面白いですよね。絵が得意だったから今があるってなりそうですけど、もともと絵の人じゃないんですね。

ヨシタケ:そうなんです。美術系の大学に行ったものの、「これでよく受かったなあ」って言われるくらい下手で。そのときに僕は「目の前にあるものを描くのはやめよう。見ないで描こう」って決めたんですね。目の前にあるものを描いて似ていないと100%僕のせいになるけれど、見ないで描くと「だって見てないんだもん」って怒られないですみますから。そうしたら、僕は絵が描けるようになったんです。美大では「目の前のものを描けるようになってから崩しましょう」みたいに言われるんですけど、僕は見ないで描くことで、むしろ描けるようになって。

糸井:それって象形文字から始まった文字が漢字になり、ひらがなになった歴史があるのに、ヨシタケさんは初めから「ヨシタケシンスケの象形文字」を作っちゃったってことですね。

ヨシタケ:本物そっくりというのは最初からあきらめて、ならば「記号」でいいし、それで何が描いてあるのかわかればいいだろうと。子どもの描いた「あ」でも、書道の達人が書いた「あ」でも「あ」って読めるんだから、認識できさえすれば絵を描いたことにしようと。

糸井:すごくしっかりした屁理屈ですよね(笑)。

■「絵=記号」にしたから生まれる面白さもあるんじゃないか

ヨシタケ:たとえば居酒屋のメニューみたいな崩れた文字がありますけど、きれいな文字より美味しそうだったりするじゃないですか。そういう文字でないとできないこともあるのなら、記号としての絵で表現できる面白さもあるだろうと。たとえば僕の最初の絵本の『りんごかもしれない』も、描き終えるまで一度もりんごを見てないんですね。「このくらいで赤くて丸いくだもの」っていう記憶で描いたんですが、あとで近所のスーパーでりんごを見たら「これ、りんごにしか見えねえよな」って思ったんです。

糸井:「かもしれない」が、なくなっちゃうんですね。

ヨシタケ:やっぱり見ないでよかったって思いました。実際にはりんごってこんなに丸くないし、なんとか農業大学の先生の監修とか受けたらアウトなんですよ。

糸井:実物と違うところがあっても、りんごを思っているヨシタケさんの気持ちを人は理解しますよね。

ヨシタケ:「この人、りんご描こうとしてるんだろうなー」というやさしさが発動されるんですよね。写真だと情報量が多すぎてりんごにしか見えないんですけど、絵だと「りんご、だよな?」って考えようとしてくれる。いい感じに足りてないと「私がりんごと認識してあげよう」となる。

糸井:本当のりんごじゃないから、この本のように「りんごじゃないもの」にも見立てられますしね。

ヨシタケ:絵でコミュニケーションするということを悪用したいんですよ。「人はこうなってくれる」というのをわかった上で、「じゃあこうなってもらおうかなー」とか、「ここはそれぞれに考えてもらうかなー」とか、確信を持って「あやふやな部分」を作りたいなと。

糸井:それが絵本のジャンルに入って平気な顔していられるようになったというのが豊かさですよね。

ヨシタケ:そうなんです。僕が今、こんなふうにここにいられるということは、そのまま社会の豊かさなんです(笑)。

糸井:よくヨシタケさんって矢印とか視線をあらわす「…」とか使いますけど、絵じゃないって自分で腑に落ちてしまえば、道具はものすごくいろんな使い方ができますよね。これを文章で書こうとするとエモーションが必要になって、乾いたものにならなくなっちゃう。

ヨシタケ:言いたいことはほんとに一言だったりするのに、文章だと誤解されたり言い訳が必要になったり。絵だと割と許してもらえて、さらに悪用ポイントになるんです。どちらかというと情報量が少ないかわいい感じの絵にすると、怒られそうなことでも案外スルーしてくれますから。

糸井:たしかに「女の子がとおりすぎた。かわいかった」って言ったら、「かわいいっていうことに、どういう価値があるわけ?」みたいになるけど、誰が見てもかわいいっていうような絵があって「かわいい」って言っても問題にならない。

ヨシタケ:だから自分の考え、あるいはブラックジョークみたいなものも、絵はいい感じにごまかしてくれるんですよ。

糸井:そのへんはポピュラーソングの作られ方に似ていますね。たくさんの人に聴いてほしいから、共通理解できないような高尚なことはダメで。むしろ「お前が好きさ」って平気で言えちゃうし、そのほうがずっと心に響く。ある意味で「お前が好きさ」は記号なんだけど、それをメロディーにのせて繰り返したら気持ちよくなるっていう。それを何のために作っているかと言われても説明ができなくて、誰かが喜んでくれるとか、それがお金になるとかで。「僕は芸術で音楽やってます」みたいな人からすると、「お前が好きさ」を繰り返してキャーキャー言われて金がもうかるって、不届きだってことになる。

ヨシタケ:わかります。僕もちゃんとやっている人に対して申し訳ないという気持ちは常にあるんです。記号にたよってわかってもらうのは、ある意味ルール違反だという方は当然いますから。でも「いいんじゃないすかねー」みたいな。

■『ぼのぼの』いがらしみきおさんが好きすぎて… 「見たことのない絵本」が生まれるワケ

糸井:僕はヨシタケさんに共通するものとして、いがらしみきおさんを感じたんですよ。

ヨシタケ:僕の中のヒーローです! 中学生くらいのときに『ぼのぼの』を読んでびっくりしたんですよ。「これマンガ? マンガでこんなことができるの?」っていう。

糸井:何を伝えたいのか説明できないんだけど、無言でうなずきたくなるような感じがありますよね。「これ、知ってる」っていう。

ヨシタケ:そうなんですよ。ほんとに大好きで、好きすぎて影響されすぎちゃうんで、今では読めなくなりました。

糸井:いがらしさんの場合、ご自身がああいう名付けようのないものに耐えられなくなったのか、あるいは深掘りしたくなったのか、もっとどろっとした謎のほうに行きますよね。

ヨシタケ:僕はあれ、こわすぎて読めないんです。すごいことを知っている方だから、表現としてのクオリティーが高すぎて、僕にとってはエンターテイメントの枠を超えてしまうんです。もちろん個人の感想ですが、やっぱりそれぞれの読者にとってのちょうどいい出し加減というのはあるんだと思います。僕の場合は、できることがいろいろ増えてくると「いいこと言いたい病」みたいなのが歳を重ねるごとに悪化していくところがあって。今日みたいなお客さんの前だったりすると、せっかく来てくれたんだから何か持ち帰ってもらわないと、みたいな。

糸井:うーん、あぶない(笑)。ひとりしゃべりになるとどうしてもお客さんのまじめなうなずきにつられて、「それだけじゃないんですよ」とか言いたくなる。こういうダイアローグ(対話)のいいところは、いいこと言いそうになるとヨシタケさんが、ちょっとどうしようかなって…。

ヨシタケ:脱線できるんで。助かるんですよね。

糸井:本なんてその塊みたいなところもあるから、激しい教訓絵本なんて作れちゃう。

ヨシタケ:そんなときに大事なのは、「それはいいこと言いたい病ですよ」って言ってくれる編集者さんなんですね。そういう方がいてくれると、「いけねいけね、そうだったそうだった」って。

糸井:やっぱりダイアローグ感覚があったほうがいいわけだ。

ヨシタケ:そうなんです。最終的に本で出していいかどうかの判断は編集の方がやってるわけで、「ギリギリこれはオッケー、それは行きすぎ」っていうのも教えてくれます。僕がひとりでやっていたらたぶん自主規制しちゃいそうなところも安心して飛び出すことができるというか、逆に「え? コレいいんですか」みたいなやり取りもあって。それで絵本でやっていいギリギリのラインに表現が揃っていくし、結果的にそれが今まであんまり見たことのない絵本になっていくみたいで。

糸井:ロックじゃないのがいいですね。「今までの絵本界をぶちたおしてみせるぜ」みたいのって、あんまり面白くないんですよね。

ヨシタケ:世の中を変える方法って人を怒らせるだけじゃない。反発することだけがアピールすることではないですよね。

糸井:ひっそりとちょっと変わったように見えて、ほんとはすごく変わったっていうのもありますからね。前にシカゴの美術館で「ヌードの歴史」みたいなのを見たんですが、神様が裸なのを描くのはずっと許されてきたんだけど、どこかの段階でその神様のヌードにちょっとピンク色を足した人がいるんですよ。その功績ってすごくて、それだけで中に血が流れちゃうし、「コレ、人間じゃないか」って気がつく人は気がつく。

ヨシタケ:絵を悪用するっていうのは、大体そういうことですよね(笑)。ほんのり赤みをさすことで、知らないうちに世間のレベルを一つ上げていく。やんわりとみんなが納得する、いい悪いの判断すらくぐりぬけることで、世の中って変わっていくんですよね。

糸井:それぞれの共通認識の中に入り込むっていうか、違和感を共通認識の中に入れてしまうというか。コツコツやっていると、知らないうちにその世界になっているっていう。

ヨシタケ:あ、いつのまにかやられちゃってるよね、できちゃってるよね、という。なんかそういうやんわりとした、ちょっとずつ温度あげてく感じができたら、面白いだろうと思いますね。

取材・文=荒井理恵 撮影=海山基明

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