知らない間に“洗脳”されちゃってる!? ある日突然、母親が新興宗教にハマった話…
更新日:2018/5/21
私は母方の曾祖父の代からのキリスト教徒で、生まれてすぐに幼児洗礼というものを受けている。何も分からぬうちから親に連れられて教会に通っていたのが、思春期になると周囲の人との違いを恥ずかしく思いながら、しかし特筆すべき能力など持っていなかった私はアイデンティティーの拠り所として、自分から教会に通うようになった。
本稿で取り上げる『ママの推しは教祖様 ~家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話~』(しまだ/KADOKAWA)の作者は中学生時代、母親がハマっていた教団のセミナーに参加すると、テストの成績が悪くても母親の「テンションと機嫌はマックスになる」からという不純な動機により、セミナーに通っていたそうだ。
宗教のトラブルに巻き込まれた体験談は、どうしても被害者視点で宗教を悪し様に語りがちだが、本書では宗教への信仰をオタクの目線で解釈しており、それが面白く、また感心させられた。作者によれば、母親が教祖の講演映像を観て号泣するのは、オタクが漫画やアニメに感動するのと同じ。自分の好きな作品を友人知人に強く薦めるのはオタク界隈でも「布教」と云うくらいだから、確かに宗教を信仰するのとオタクが趣味にハマるのとは共通しているように思える。
作者のこの視点は自身がオタクというだけでなく、父親の影響もあるようだ。というのも、父親はカトリックの信者だそうなのだけれど、考え方が非常にドライ。結婚前にブラックな会社で過ごしていたときに出会ったのがキリスト教だったとのことで、奥さんと知り合ったのもその頃だという。そして教会とは別に、奥さんの純粋さと笑顔に救われたと感じ父親は結婚する訳だが、自分もカトリックを信仰しているし、「人のシュミにとやかく云う必要もない」と思って口を出さなかったのだとか。作者が「宗教ってシュミなの!?」とツッコミを入れていたけれど、いまや日本の慣用句として定着し違和感がない、新約聖書の使徒行伝に出てくる「目から鱗が落ちる」とはこのことだ。
宗教にハマるのが趣味にハマるのと同じとなれば、起きるトラブルも変わりがない。作者の兄が母親と大喧嘩し、原因を兄に訊いてみると兄の友達の母親を勧誘していたから。「素晴らしいものを人に伝えるのに理由がいる?」と一点の曇りも疑問も持たない母親に、「万人受けってありえないでしょ? どんな作品にもアンチはつくし」と説得してみても、本人は純粋な気持ちだから理解しないし、布教された側が戸惑って距離を置くようになるのは無理からぬこと。また、オタクが好きで集めたフィギュアを捨てるようなことをすれば、ネットの掲示板やSNSで話題になったように離婚問題へと発展したり、捨てられた人が自宅に火をつけたりなんて事件もあるから、「過干渉せずドライでいた方がいいんだな」と作者は悟っている。
なにしろ生活に必要なお金さえつぎ込み、趣味に没頭しすぎた挙げ句に人間関係をも破綻させてしまうことまで、やはりオタク趣味と共通しており、作者は仮に母親が宗教にハマっていなくても、「別のものに依存していたと思う」と推察していた。宗教にハマるのを洗脳されたと考える人もいるだろうが、洗脳とは字義のうえでは強制的に思考や主義を変えさせることを意味しているものの、宗教への信仰が趣味にハマることと同じならば、自ら望んでいるのだから洗脳とは違うのかもしれない。
そして作者の、母親が見せる信仰への容赦ないツッコミの数々に笑い転げ、ギャグ漫画のように読み進めていたら、最終章には「ダークサイド」が描かれており、最後のページの作者の言葉が実に切ない。宗教にハマるのは趣味にハマるのと同じ。本書を読んで私の信仰もまた、そのくらいに留めておかなければと自戒した。
文=清水銀嶺