うつを体験した歴史学者が語る「平成」【與那覇潤さんインタビュー】
更新日:2018/5/25
『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』(NTT出版)、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文春文庫)などの著者で、メディアにも度々出演していた歴史学者の與那覇潤さんは、ここ数年、うつ状態に苦しんできた。
准教授として勤める大学を2015年から休職・療養していたが、昨年秋に離職、今年4月に『知性は死なない 平成の鬱をこえて』(文藝春秋)を出版した。同書で與那覇さんは自身の体験を、平成という時代に照らし合わせながら振り返っている。歴史学者としての足場を築きつつある最中に、「知性そのものをむしばむ病気」(同書より)によって、キャリアを捨てる怖さはなかったのか。與那覇さんに伺った。
■民主党政権崩壊時の論壇に感じた、異様な孤独と失望
筆者は2014年初春に與那覇さんと、ある討論の場で隣り合わせになったことがある。性急に結論を求めず、相手の言葉のどこに共感できるかを模索するように話す姿に触れ、もっと話をしてみたいと思った。しかしその時にはもう、相当体調が悪くなっていたと初めて明かした。
「この討論にはいわゆる戦後知識人、戯画的に言えば『大学という守られた場所から、戦前批判や護憲平和といった理想論を唱えて、世の右傾化を嘆く人々』に対して、批判的なパネリストが多かったんです。そういう時、自分はついバランスをとろうとして、昔ながらのリベラル派を擁護してしまうのだけど、心の底ではもう絶望していて……。なんであれだけ裏切られた相手をまだ守るんだ? という違和感で、精神的には参っていました」
何がうつの原因になったのか、特定することはできない。しかし2012年末に民主党政権が崩壊して以来、與那覇さんはずっと「異様な孤独感」を抱いていたという。
「野田佳彦さんが抜き打ちで衆議院を解散して、安倍晋三さんの自民党などとの選挙戦になった頃、Twitterのタイムラインを見ていて心寒くなった気持ちを、今も思い出すことがあります。
それまでリベラルな主張をツイートしていた人たちが、わーっと民主党を見捨てて違う政党に逃げていった。『リフレ(リフレーション:中央銀行に金融緩和をさせて適切な規模のインフレを起こし、景気を回復させるという主張)をやってくれるなら、安倍でいいんだ!』と自民党につく人もいれば、改革右派というか、やり方が荒っぽくても変化が大事という人は、橋下徹さんが石原慎太郎さんと組んだ維新の会に。どちらにも行けない左派的な脱原発の人たちは、なんと小沢一郎さんがにわかに作ったばかりの、未来の党に行きました。
もちろん、それぞれに事情はあったと思います。ただ実際のところは、あの状況でオワコンの民主党を擁護したら『多数派に入れない、大衆から浮いてしまう』という恐怖心がそれをさせた面がなかったか、一人一人が内心に問うてもらえたらと思います。その時々の多数意見や社会のムードに迎合するだけなら、言論人の意義ってあるのですか? と振り返ってほしい」
「Twitter論壇」とも呼ばれていた、SNS上での言論を通じたつながりに與那覇さんが限界を感じていた2014年の冒頭、勤務していた大学でも決定的な出来事があった。普段は「天皇制批判」を公言していた同僚たちが突如、「研究者・皇太子徳仁親王による学術講演」(事業計画書での表現)を、次年度に学部が行う目玉企画として推し進めだしたのだ(結果的には実現せず)。
「情けなかったですね。提案者の教員は『皇族が海外で要人と会食する「皇室外交」は、憲法違反ではないのか』という主張を、学内の研究会で発表していた人です。他にも卒論指導の際に『天皇の戦争責任を問うてないじゃないか!』と大声をあげて、女子学生を涙ぐませるような人たちが、しれっとした顔で『研究者でもある皇太子殿下に、本学でご講義いただきます』という話をするのですから。
ぼくは研究上も教育上も、彼らのスタンスには違和感がありました。ただ、そこはお互いの思想信条を尊重しなければ、大学の自由は成り立たないから、我慢しなくてはと思っていたのです。ところが実際には、思想も信念もない人たちだとわかってしまって。
Twitterみたいに絶えず世論に晒される空間だと、『空気に飲まれてしまう』ことが誰しもあるでしょう。そうではない思想や言論の拠点を確保するためにこそ、学問の自由や、それを制度的に保障する大学の自治があったのですが……。もう自分の居場所はどこにもないなと、そういう気持ちでした」
この時点で、すでに大学に価値を見出せなくなっていたと與那覇さんは振り返る。指導するゼミ生たちだけは卒業させたいと勤務を続けたが、同年の8月に急激なうつ転を体験する。
■精神科の入院生活で、大学よりも大切なものを得られた
今まで当たり前にできていたことが、まるでできない。そんな状態は本書の第2章(http://bunshun.jp/articles/-/6930 で無料公開中)で克明に描写されているが、與那覇さん自身、それがうつの症状だと理解するのに時間がかかったそうだ。
「うつ状態になると能力が損なわれるのは、治療の現場では常識なのに、一般にはあまり知られていません。だから日常会話もできなくなった自分が何なのか、本当にわからなくて。2015年3月に短期の検査入院をしました。その結果が『極めて重度のうつなので、いますぐ治療入院してください』との判定だった。ただ3月だから、ゼミ生の卒業式がある。それで『卒業式に出てからでは……』と言ったら医師の返答が非常に巧みで、『交通事故で大量出血中の患者が、仕事に行きたがっても外科医は許可しません。それと同じです』と返されて、はぁー……っと。学生たちには、本当に申し訳ないことをしましたね」
入院生活は、2か月強に及んだ。ネガティブなイメージで捉えられることも多い精神科に入院することで、築いてきたものを失う怖さはなかったのだろうか?
「正直、ぼくにも精神科への偏見があったと思います。しかし入院して驚いたのは、大学よりもはるかに『誠実に話し、篤実に聞く人』に出会えたことでした。著書を出したりメディアに出たりして『活躍する若手学者』みたいに呼ばれていても、教授会ではまともに話を聞いてもらえなかった。逆に、ぼくが大学の先生だなんてまったく知らない患者の人たちが、真剣に話を聞いて、心のこもったアドバイスをしてくれて。
そうなると、問い返さざるをえないわけです。『知性がある人って、どっちのことなんだ?』と。教授や准教授などの立派な肩書を持っていながら、その場その場で言うことが違う人なのか。それとも病気のために学歴社会からは脱落しても、本人の体験とぼくに通じることとの距離を測りつつ、真摯な言葉を紡ごうとする人なのか。本書の末尾に『大学という行き先にいくだけでは、知性には出会えません』と書いたのは、かつての自分に対する反省でもあるんです。
その意味で回復のきっかけが、『精神科への入院』で本当によかったと思います。たとえば『南の島で癒されて元気になりました』的な話だと、芸能人のフォトエッセイじゃないけど『そこに行くだけ』でこんなに素敵な体験が、という内容になりがちじゃないですか。しかし病室で寝ているぼくじゃ、写真映えしないですよね(苦笑)。本にするには『身体』を通じて体験したことを、類似の経験のない人にも伝わるよう『言語化』する試みがいる。そのせめぎあいが、知性だと思うんですね」
■終わったはずの「昭和」に、翻弄された平成の30年
今年39歳になる與那覇さんはまさに、思春期の頃に改元を迎え、平成とともに青春を歩んだ世代だ。歴史学者として昭和史の本は書いても、同時代史としての平成史をまとめる機会を病気のために逸した。だから今回の本は、その欠落を埋める狙いもあった。
「歴史の授業で有効なテクニックに、『○○と■■って、実は同じ年に起きていたんだよ!』と言って、聞き手に『えっ!?』と思わせるやり方があります。今回の本でも、平成の30年間に相当する日本と世界の年表を入れたのですが、そこで自分自身『ああ……』と叫んでしまうことがありました。
最初の過労自殺訴訟で、雇用主の電通に責任を認める歴史的な最高裁判決が出たのが2000年の3月24日です。しかしその4日後に放送が始まったのが、大ヒット番組となるNHKの『プロジェクトX』でした。なぜ自殺するくらいなら、会社を辞められないのか。それは終身雇用的な『昭和の働き方』の負の側面だとよく言われますよね。そういう働かせ方自体を見直さなくてはという動きの、まさに糸口になるはずだった判決の直後に『昭和のお仕事礼賛番組』が始まり、皆がそちらに流れていった。
こういう『昭和からのバックラッシュ』と同時に、正反対の『昭和へのコンプレックス』が併存していたことが、平成の日本から、当初期待された変革や豊かさを奪ってしまったように思います。『昭和の万年野党と同じだ』と言われるのが怖いから、なんとしても世間の目に『勝者』として映らねば、与党に使ってもらえる結論を出さねば、という強迫観念に、知識人が次々と駆られていった。ぼく自身が大学やSNSで見てきた知性の崩壊をそう位置づけることで、ずっと日本の近現代史を描いてきた者としても、最後の仕事ができたと思っています」
自身を苦しめた体験を歴史的に位置づけたいま、大学や知性の未来にも、生きる時代にも絶望していないと語る與那覇さんは、同書の「はじめに」で、この本を「知性を『再起動』するためのきっかけ」にしてほしいと記している。
「再起動」とは一体何なのか。それはおそらく、元の姿に戻ることではない。以前の自分から必要なものは受けつぎ、以前は知りえなかった新たな価値観とともに全く別の姿を築いていくことが、再起動なのだ。見事に再起動を果たし、ラフなファッションで屈託なく笑う與那覇さんは、身体と言語の両方でそう伝えているように映った。
聞き手=朴 順梨