「もしもあのときこうしていたら…」後悔をやめるために必要なこと
更新日:2018/7/9
たとえば「もしもあのときこうしていたら」とか「もしもあのときああだったら」というのは、誰もが一度は考えたことがあるだろう。これらは、一般に後悔と呼ばれる気持ちだ。しかし、後悔に何か合理的意味があるかと言えば、これは実はあまりない。どうあがいたって過去は変えられないのだから、いくら「もしも」を考えたところで「今の現実」には何の影響もないわけだし、むしろ気分が憂鬱になる分マイナスだ。過去を悔いることで次に同じ失敗をしなくて済む、という意見もあるかもしれないが、それなら失敗した過去を忘れなければ良いだけであって、何度も思い出して「もしも」を考える必要はない。突き詰めると、後悔というのは非常に非合理なものなのだ。ではなぜ、そんな非合理なことを人は繰り返すのか? 後悔をやめる方法はあるのか? それを考えたのが『過去と和解するための哲学』(山内志朗/大和書房)である。
そもそも、後悔する時に人は何をしたいのだろう。その過去を消し去ってしまいたいのか、タイムマシンでも使ってその時間に戻り、過去をやり直したいのか。改めてそう問われると、明確に「こうしたい」と思って過去を反芻しているわけではないことに気付くかもしれない。では、後悔の正体とは何なのか。本書曰く、後悔とは自分への攻撃なのだという。人間には誰しも多かれ少なかれ攻撃性がある。そして、その攻撃性は常に攻撃する対象を探しているのだ。外の世界に攻撃する対象が見つからなかった場合、人間の攻撃性は「自分自身」を攻撃の対象に選ぶのだという。その証拠に、後悔というのは何かに熱中している時などは湧き上がって来ないことが多いのではないだろうか。熱中していたり夢中になっていたりする時は、自分を攻撃している暇がないからだ。
まれに、「あの時ああしていれば」という気持ちを「あの時あの人がああしてくれていれば」にすり替える人も居るが、これは攻撃の対象を自分から他者へ変えることによる一種の自己防衛だ。だから、後悔をやめる一番手っ取り早い方法は実は自分以外の攻撃対象を探すことなのだ。しかし、これでは根本的な解決になっていないし、場合によっては人に迷惑がかかるし、何より「人に攻撃してしまった」という新たな後悔の念を生むことにもなりかねない。そのため、ここでは「すり替える」という部分だけを採用すると良いだろう。つまり、後悔(自分への攻撃)を別のものへすり替えれば良いのだ。本書では、次のようなことが語られている。
〈ありえたかもしれない救済〉を語るのはいかなる行為なのか。それは「祈り」だ。祈りは未来に向けられるばかりでなく、過去にも向けられる。
つまり、過去を反芻する行為すなわち後悔を、過去の自分に対する救済の祈りだと思えば良いということである。今の自分が後悔に苦しむのは、過去の自分が救われていないからだ。だから、過去の自分の救済を祈ることで今の自分をも救済できるということである。過去は取り戻せない、戻って来ないからこそ、解釈は自由なのだ。過去の自分に対し「何であのときああしなかったんだ」と責めるのではなく、「あの時ああすることは現実的に考えれば不可能だった」と思うことができれば、後悔の念も少しは軽くなるのではないだろうか。
後悔の中には、心に深い傷を負ったが故に度々蘇ってくるものもある。いわゆるフラッシュバックである。こういった記憶は、閃光記憶(フラッシュバルブメモリー)というところに格納されており、通常自然に消えていくことはない。たまに「何年も前の事故の記憶が未だに蘇ってくる」ということがあるが、これはその事故の記憶が閃光記憶となっている証拠だ。フラッシュバックは、本人の認識の問題などではなく、脳の記憶の仕方の問題なのである。だから、フラッシュバックは本人の努力ではどうにもならないことも多い。カウンセリングなどを受けても、人によっては効果があまり見られないこともある。記憶とは、人間を人間たらしめる大事なものだが、同時に人間の心をむしばむ天敵でもある。記憶すなわち過去とどう付き合っていくかは、この先考えていかなければならない問題かもしれない。
文=柚兎