なぜ朝日新聞記者は襲撃されたのか? 「赤報隊事件」の真実【インタビュー】

社会

公開日:2018/6/8

『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)

 今年1月、NHKスペシャルで2夜にわたり、「赤報隊事件」をテーマにした番組が放送された。実録ドラマパートの主演は、SMAP解散後初めてのテレビドラマ出演となった草なぎ剛。彼が演じた樋田毅さんは元朝日新聞記者で、2月に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)を出版した。犯人は捕まらないまま、2003年に時効を迎えて15年が経過した今、なぜ樋田さんは事件を振り返ろうと思ったのだろうか。

著者の樋田毅さん

■事件はいずれ解決するだろうと、最初は希望を持っていた

 このタイミングで出版した理由は何なのか。樋田さんに質問すると、

「昨年が事件が起きて30年の節目だったし、自分も朝日新聞を定年退職して契約社員を続けていましたが、昨年その期間も満了しまして。ずっと事件のことは書きたかった。でも書くとすれば会社にとって都合の悪い話も含めて全部書かざるを得ないなと。だから会社を離れることになったら出そうと、機会を待っていたんです」

advertisement

 と答えた。

 1987年5月3日、兵庫県西宮市にある朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った目出し帽の男が押し入り、記者を銃撃した。当時29歳の小尻知博記者は死亡、犬飼兵衛記者は重傷を負った。犯行前から阪神支局には無言電話が何度もかかってきていて、同年1月24日には朝日新聞東京本社の窓ガラスに、散弾が2発撃ちこまれる事件が起きていた。その際「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗る団体から「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」といった内容の犯行声明が出されていたが、5月3日の事件もやはり赤報隊から、「この日本を否定するものを許さない」「反日分子には極刑あるのみ」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」などと書かれた犯行声明文が届いた。これがいわゆる「赤報隊事件」と呼ばれる、朝日新聞社へのテロ事件だ。赤報隊による襲撃や脅迫は3年4か月の間に阪神支局銃撃事件を含めて8件起きたが、いずれも2003年に時効を迎えている。

 樋田さんは朝日新聞社に1978年に入社後、5年間阪神支局に配属されたのち、事件当時は大阪社会部に異動していた。子どもたちを恐怖に陥れた「グリコ森永事件」などを担当していたが、後輩が襲撃されたことで事件の取材を進めることになる。

 犯行声明文が残されていたにもかかわらず現在も未解決事件であることを、どう受け止めているのだろうか。

「自分は事件が起きた後、事件取材班というところで調査を続けていました。警察がどんな捜査をしているのかを取材しながら、こちらも独自取材をする。そういう体制でしたが、警察が総力をあげて捜査体制を組んでいることはわかっていたし、我々も必死に調査をしているのだから、いずれ解決するだろうと希望を持っていました。それが30年間ずっと未解決のままというのは本当に残念で、ショックですね」

■犯人探しではなく、時代の背景を書き残したかった

 樋田さんは同書の中で、事件から10年以上過ぎた1998年に、警視庁がリストアップした「赤報隊の可能性がある9人」を訪ね歩いている。全員が新右翼活動家で、事情聴取やポリグラフテスト(ウソ発見器)を実施したが、「いずれもシロ」という結論が出ている。彼らと会い、当時どんなことを考えて過ごしていたかを調べてはいるものの、犯人に繋がる手がかりは今回も見つかっていない。調べても調べても犯人の姿が浮かび上がってこないのは、何が原因だと考えているのだろうか。

「犯行グループがごく少数で結束が固く、情報を外に漏らさないようになっている。だから伝わってこないという可能性が大きいですね。これまで我々が取材をしてきた右翼の人たちは、しばらくすると『あの事件は誰それの犯行だ』とか言い出すことが結構あったんですよ。もちろんわからないものもありますが、何年か経つとなんとなくわかってくるんです。でも赤報隊だけは、それが全くわからない。少数の結束が固いグループなのか、大きな組織に守られた人たちなのか。そのどちらかだろうと想像してはいますが……」

 右翼関係者と並行して樋田さんは、ある宗教団体についても触れている。現在も活動を続ける新興宗教だが、韓国との関係も深い。彼らが「この日本を否定するものを許さない」という事件に絡むことには矛盾を感じて仕方がないが、なぜこの教団についての記述を載せたのか。

「関西には在日韓国人が関わっている右翼団体があり、彼らの多くは反共意識を前面に押し出しています。言うなれば『アカ嫌い』なんですね。日本の右翼は中国や朝鮮半島に対して反感を持っている人も多いですが、『共産主義と戦う』という思想が一致し、手を組むこともあるのです。

 しかしこの団体が事件に関係していたかどうかについては、一言も書いていません。事件が起きた1980年代後半、霊感商法を進めて信者を獲得していたことを朝日新聞が批判していて、彼らから強い反感を持たれていた。そういうタイミングで事件が起こったという、時代背景を書く上で彼らのことに触れたんです」

 サブタイトルを「赤報隊事件 30年目の真実」としたものの、「あいつが犯人だ!」ということ推理したり、伝えたりする本ではない。事件が起きた当時、朝日新聞を取り巻く状況は一体どうなっていたのか。その歴史の記録としてまとめたと、樋田さんは言う。

「読者の方から『朝日愛に溢れているよね』と言われましたが、まさにそうかもしれません(笑)。出てくる登場人物は仮名と実名の人がいますし、右翼団体の関係者が多く登場します。そういったことに関心がない方から、『人間関係がよくわからない』という声もいただいていますが、その場合は読み飛ばしてください(苦笑)。

 また31年も前のことなので、事件そのものを知らない世代もいると思います。だから第2章で紙の色を変えて、事件の経過について物語風にまとめています。ここに登場する犯人像や心理描写は私の推理による『創作』ですが、事件を追体験できるようにしてあるので、ここだけでも読んでもらえれば嬉しいですね」

■赤報隊は、現代のネトウヨを生む種だった?

 赤報隊が犯行声明文に書いた「日本を否定するものは許さない」「反日分子」といった言葉は、現代のネトウヨが好んで使う言い回しとほぼ同じだ。それを証拠に現在、朝日新聞社周辺では「一億赤報隊」を標榜し、事件を「義挙である」と言って憚らないグループが街宣をおこなっている。朝日新聞社に向かい「クソバカ朝日」「てめえらを絶対潰すからな!」などと叫ぶこの街宣には、在特会をはじめヘイトデモ参加メンバーの顔が並んでいる。30年前に赤報隊と関係していたとは思えない元若者たちが現在、赤報隊にシンパシーを抱いている。そう考えると事件は現在のヘイトデモを生み出す、大きなきっかけになったと言えるかもしれない。樋田さんはこの街宣を、どうとらえているのだろうか。

「本当に怒りがこみ上げてきます。一体、何を言ってるんだと。2014年頃から阪神支局の前でも5月3日に街宣がおこなわれるようになりましたが、支局やその近隣の人たちにとって5月3日は、事件で殺された小尻記者を追悼する厳粛な日です。心静かに事件を振り返る日だった。なのに事件を支持するような街宣がおこなわれることは、到底許されることではないですよね」

 朝日新聞社は2014年夏、かつて吉田清治氏という男性が「済州島で女性を強制的に連行し、慰安婦にした」と語ったいわゆる「吉田証言」や、福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長(当時)に、政府事故調査委員会が聴収した「吉田調書」の報道を取り消している。これを機に他メディアや読者から、激しいバッシングを受けている。しかし誰か襲撃されるといった事件は、1987年以降は起きていない。また樋田さんによると、赤報隊事件で仲間が殺されたことで、当時の記者は記事を書くことに怯えたり、誰かに忖度したりするようなことはなかったという。そう考えると今の朝日新聞社は少し、委縮し過ぎているのではないか。

「私は定年しましたが、かつて一緒に取材をした仲間はまだ会社に残っています。彼らに今、どんな思いで取材をしているのかをこの本の中で尋ねたところ、『2014年の吉田証言と吉田所長問題で、想像をはるかに超える朝日新聞バッシングが起きた。そのことで大変な思いをしているけれど、それでも覚悟を決めてこれからも書いていかないと』と、異口同音に語っていました。ジャーナリストはバッシングも含め、経験を重ねることで強くなると思っているので、今はいい機会だと受け止めて頑張ってほしい。一方の私は組織を離れたことで、これから自分の力が試されるのだろうなと思っています」

 出版後約4か月が経過した現在、いくつか情報提供の声が寄せられているそうだ。

「事件に関わったうちの誰かがこれを読んで、名乗り出てほしいと思っているんですけどね。襲撃された当時小尻くんは29歳で、私は35歳。後輩の死に強い喪失感がありましたから、何度もお墓参りには行きました。亡くなったご両親がお元気な頃に『必ず犯人に辿り着きます』と約束しましたが、その約束をまだ果たせないのが辛い。だから犯人の影をつかむまで、ずっと取材を続けていくつもりです。今66歳になったので少しずつしか動けませんけれど、あと10年ぐらいは頑張れるかな(笑)」

取材・文=碓氷連太郎