「老人」と呼ばれるのは何歳から? 『その話は今日はやめておきましょう』
更新日:2018/7/10
人が“老人”になるのは、一体何歳になってからなのだろう。『その話は今日はやめておきましょう』(井上荒野/毎日新聞出版)は、すべての世代の人々にとって“老い”との向き合い方を考えさせてくれる1冊だ。
本作は、定年後の穏やかな日々を過ごしていた昌平とゆり子が、一樹というひとりの青年と出会ったことにより、予想外の展開をみせていく。2人は、趣味のクロスバイクを楽しみながらも、老いてきた自分たちの生き方に戸惑いを抱いていた。そんな日常は昌平が交通事故で骨折したことにより、大きく変化していく。昌平の世話をするため通院していたゆり子は、サイクリングショップの店員であった一樹に病院で偶然助けられたことを機に、彼を家事手伝いとして家に迎え入れることを決意したのだ。
だが、息子のように頼もしく思っていた一樹が来るたび、いつしか家の中の物がなくなっていくようになり、ゆり子は彼に直接問いただすことも昌平に相談することもできず、悶々とした日々を送りはじめる。そうしているうちに、一樹の行動はさらにエスカレート…。昌平をも驚愕させる要求を行うようになり、事態は思わぬ方向へと転がっていくのだ。
こう記すと、本作は老夫婦がどうしようもない若者に立ち向かおうとする話のように見えるかもしれない。しかし、2人が本当に立ち向かっていったのは一樹ではなく、自分たち自身だった。
世間から「お年寄り」と呼ばれる年齢になると、自分の身体に老いが忍び寄っていると感じる機会が増えてくるが、同時に「自分はまだまだ年寄りではない」という気持ちも強くなってくる。周囲から向けられる「おじいちゃん」や「おばあちゃん」という視線にふさわしい生き方をしたいわけではないのに、その枠からはみ出した言動を取ってしまうことに不安も感じ、どう生きていけばいいのか分からなくなってしまうのだ。
“自分だって、かつては自分より年老いた者たちのことを、侮っていたし、そうでないときには憐れんでいた――自分よりもずっと弱く、劣った者として。その立場はいつから逆転したのだろう?”(本書より)
若者から向けられる視線に、そんな思いを抱いてしまうのは現代で生きているシニア世代も同じだろう。
バリバリと働いていた現役時代とは違って空白が多くなってきたスケジュール帳、子どもや孫たちの活き活きとした姿は、老いを感じ始めた心に痛みを与える。そして、自分と年齢が近い人の死は「人はいつか死ぬ」という事実を色濃く感じさせ、年を取ることへの恐怖感や孤独感をさらに募らせるきっかけにもなるだろう。けれど、こうした老いへの恐怖心は子どもや孫といった若者に埋めてもらうのではなく、夫婦が互いに向き合い、乗り越えていくものなのかもしれない。
二世帯住宅で自分の子どもたちと同居し、老後を過ごす人も増えているが、日々の暮らしの中で孫や子どもたちの若さに触れると、余計に孤独感を募らせてしまうことだってあるだろう。時には、自由な生き方ができる我が子の若さを妬んでしまうこともあるのではないだろうか。
“親の世代の常識や価値観を子どもたちに押し付けるようなひとたちを、自分は難じていたはずなのに。それなのに、自分の手が届かないところに娘が行こうとしているのがわかったとたんに、彼女のこれまでの人生を否定するようなことまで考えはじめている……。”(本書より)
娘の自由奔放さは昔から知っていたはずなのに、恋人と一緒に住むため海外へ飛び立っていく我が子へ自分の気持ちを押し付けたくなるゆり子の気持ちは、子どもを持つシニア世代の心に響く。誰だって歳は取りたくないし、できることなら失敗ができる若さを持ち続けていたいからだ。
しかし、世の中には何かを失って得るものもある。毎日が忙しなく過ぎていた現役時代とは違い、定年後は時間に余裕が生まれる分、暮らしが単調に感じられてしまうこともあるかもしれないが、単調だからこそ、自分らしいペースで人生を楽しむことだってできるようになるのだ。
真っ白なスケジュール帳だって、夫婦で向き合い寄り添い合いながら生きていけば、カラフルに色づかせられる。たとえ老いたとしても前向きな心があれば、自分の人生は楽しむことができるのだ。
年齢を重ねていくほど、「あの頃はよかった」が口癖になったり、未来に不安を感じる機会は増えたりするものだ。だが、過ぎ去ったあの頃やまだ見ぬ将来に思いを馳せるのではなく、“今”という時間に目を向けてみると、新しい老い方が見えてくるかもしれない。「懐かしい話や心配事は多くあるけれど、その話は今日はやめておきましょう」と言えるほど自分の足でしっかりと歩める今があれば、迫りくる老いなんて、もう怖くない。
文=古川諭香