【ノベライズ発売記念】大人気百合ゲーム「FLOWERS」小説版の書き下ろし前日譚を掲載!
公開日:2018/8/3
百合ファンから絶大な支持を集めるゲーム「FLOWERS」シリーズがノベライズを果たし、『FLOWERS 1 -Le volume sur printemps- フラワーズ〈春篇・上〉(星海社FICTIONS)』(志水はつみ:著、スギナミキ:イラスト/講談社)が刊行されました。静謐なミッションスクールで紡がれる少女たちの友情と恋情を描いた本作春篇の語り手となるのは、内気で臆病な文学少女・白羽蘇芳。小説版発売を記念して、彼女が物語の舞台となる聖アングレカム学院に入学する以前の一幕を、原作のシナリオライターにして小説版の著者である志水はつみさんが描いた書き下ろし短篇として掲載いたします。白羽蘇芳の旅立ちを綴った、『FLOWERS』という「少女小説」の端緒にぜひ触れてみてください。
穏やかな春の陽射しを受けながら、縁側からの景色を記憶に刻んでいた。
祖父の家は昔ながらの武家造りで、たくさんある畳の部屋を襖で区切った、平屋の大きな屋敷だった。
夏は風が爽やかで、秋は朱に映える風景と鈴虫の鳴き声が心を洗った。冬だけは底冷えするほどに寒く、早く次の季節を待ちわびるほかなかった。
この家に預けられてから、初めて迎えた春だった。柔らかで丸みを帯びた陽射しが、凍てついた血汐を溶かしてくれるような心地がした。
縁側は、私のお気に入りの場所だ。少し日焼けした小説を読み、目が疲れたら庭の景色をゆったりと眺める。一日中そうしていても、飽きることはなかった。
けれど、今は――「此処にいたのか」
背中に呼びかけられた。畳が沈む音が近づく。
出先から帰ってきたのだろう、藍色の着物に同色の山高帽を被った祖父が私の隣にどっかりと座り込み、帽子を縁側の木床へと置いた。
「何を読んでいるのだね」
尋ねられ、畳に積んだ図書から、いちばん上に乗せた小説を手渡した。
「『誰がために鐘は鳴る』か、僕は映画の方が好きだがね」
祖父が冗談を言う時の癖だ。目尻に皺を寄せ、にこりと少年のように笑みを零しながら言う。
私も微笑み、冗談めいた口調で返した。
「私が海外文学を好きになったのは誰の所為だと思っているの」
祖父は海外文学しか読まず、特にヘミングウェイを好んだ。この『誰がために鐘は鳴る』も祖父の蔵書だ。
経験なくしては何も語らずが持論の人だから、己の経験を元に執筆したと言われるヘミングウェイの作風が馴染んだのだろう。そして、私もヘミングウェイが好きだった。
「僕の影響がなくとも、遠からず海外文学に手を伸ばしたと思うがね。それで、もう用意は済んだのかい?」
「はい、明日学院へ向かう用意は済ませました」
――聖アングレカム学院。
私が明日から通う、ミッションスクールの女学校だ。
ううん、通うだけでなく、寄宿舎に住まうことになる。この家とは、しばしのお別れ。
だから……今まで心を慰めてくれた庭の景色を、私は目に、記憶に刻んでいた。
屋敷に覆い被さるようにして枝を垂らす大きな松の木。その松を彩るように楓が植えられ、赤ちゃんの手のひらのような葉がさやさやと揺れていた。青青としたツツジや苔むした盆栽を順繰りに眺め、瞳へ、心の裡へ切り取っていく。
「――君は断ると思っていたよ」
祖父が溜め息を吐くように呟いた。瞳を庭から祖父へと移し、私は小首を傾げる。
「聖アングレカム学院へ入学することをだよ。幹生が……君の父が、学院への入学を勧めたとき、僕は断ると思っていた」
微かな落胆を目に滲ませた祖父は、松の木を眺めながら続けた。
「此処へ来て少ししてから、やはり君の父の勧めで近くの学校へ転入をさせた。だが、それは間違いだった」
祖父の言った通りかもしれない。転入した学校で心に傷を負い、私はこの家に籠もりきりとなった。
「僕は医師なのにね」
自嘲気味に笑う祖父。その横顔を見詰め、私は首を横に振った。
父の勧めではあったけど、私が決めたことだ。私が傷ついたのは、私がいたらなかった所為だ。
「父は私のことをいつも第一に考えてくれています。聖アングレカム学院を勧めたのも、きっと何か考えがあるのだと思う……」
「無(ナダ)にましますわれらの無よ、願わくば御名の無ならんことを」
祖父は経文のように唱えた。ヘミングウェイの短篇「清潔で、とても明るいところ」の一節だ。父なる神への祈りのあちこちが、虚無を意味するスペイン語に置き換えられてしまった文句。
「君の父は、君に干渉をしなさ過ぎた。そして取り返しが付かなくなってから干渉し始めた。いまだに間違い続けている……」
私と目を合わせず、祖父は庭を睨んでいる……その瞳には、強い悔恨の情が宿っていた。
私は、厚い祖父の手のひらに自分の手を重ねた。
祖父は夢を見ていたかのように瞳を瞬かせ、緩慢に私へと顔を向ける。鳶色の眼差しが、私を映した。
「光、がありさえすればいい」
「そいつは――」
「お祖父ちゃんが好きな言葉、でしょ?」
「清潔で、とても明るいところ」で、虚無に塗れた主への祈りを唱えるカフェのウエイターは前置きする。この世はすべて虚無であるから、光がありさえすえればいいのだと。
此処は清潔で、とても明るい場所だ。暖かい陽光が、私を照らしている。けれど、あのウエイターが求めた「光」は、きっと言葉そのままの光線のことではない。私は――
「私は、私を想って勧めてくれた父を、お祖父ちゃんを信じる。きっと今度の学校では素敵な出会いがある、そう思えるの」
「それは……理屈ではなく勘なのだね?」
ええ、と頷く私。
ならしゃあねぇな、と珍しくお国言葉を祖父は零す。故郷の言葉が出る時は、素の祖父が出た時だ。
「君がそう言うのならきっと正しいのだろう。新しい生活が君の心を癒やし、幸せで充たしてくれることを祈っているよ」
そう言って、目尻に皺を寄せる。
「だが、その学院が、クラスメイトがお前を害するというなら僕が乗り込んでやる」
冗句に笑う私を、祖父は優しく見詰めた。
「だけどね。どうしても堪えられないことがあったら、またこの家に戻ってきなさい。此処は君の家なんだよ、蘇芳」
――私は、その言葉と瞳に刻んだ庭の景色を胸に留め、祖父から日に焼けた小説を受け取る。そして明日の鐘が鳴るのを聴くべく、淡い水色の空を見上げた。
〈引用・参考〉アーネスト・ヘミングウェイ『ヘミングウェイ全短編・』所収「清潔で、とても明るいところ」(訳=高見浩、新潮社、1996年)