悲しみの記憶を忘れないための「ダークツーリズム」 新しい観光の視点
公開日:2018/8/15
ダークツーリズムは「人類の悲劇を巡る旅」と定義される。「戦争や災害をはじめとする人類の悲しみの記憶を巡ることで悲しみを承継し、亡くなった方を悼む」ことを目的とする旅、と聞くと身構えてしまう読者もいるかもしれない。だが私たちは、唯一の核兵器被爆国である日本を代表する史跡として、広島の原爆ドームが世界遺産に登録されていることをよく知っている。これは、戦争や原子爆弾という悲しみの記憶を「人類の負の遺産」として、後世にその教訓や平和の大切さを伝えるための遺跡だ。
本書『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』(井出明/幻冬舎)は国内外のいくつかの地域について、ダークツーリズムという視点で著者が実際に辿る、という紀行文の形をとっており、まずはダークツーリズムとは何かという雰囲気を味わえる構成になっている。一旦気負いなくダークツーリズムという旅を見てみることにしよう。
■そもそも「ダークツーリズム」とは?
「人は二度死ぬ」というフレーズを聞いたことはないだろうか?
肉体的な死が一度目の死、そしてその人を知り、記憶する人がいなくなってしまうことで訪れるのが二度目の死だ。例えば過去の災害によって、その地で生き、その地で死を迎えた人の記憶を地域が失ってしまう「二度目の死」によって、災害を恐れなくなってしまい、危険に対する備えを怠ることにつながりかねないのだそうだ。だからこそ、それが悲しみであったとしても、ダークツーリズムによる記憶の承継は必要なのだろう。
だが、気負ってダークツーリズムに臨む必要はない。まずは悲しみの場に赴き、そこで静かに時間を過ごす、こうした経験を重ねるだけでも、今まで自分の命が驚くほど多くの偶然によって支えられ、何者かによって生かされているのだという感慨を持つようになるだろう。それでいいのではないか、というのが著者の主張である。
結果的に自分の人生を大切だと思えるようになり、今ある自分の命を何らかの形で役立てたいという気持ちになれる…。ダークツーリズムは、このようにポジティブで非常に大きな可能性も有しているのかもしれない。
■ダークツーリズムの役割と課題点
ダークツーリズムの定義は「悲しみの記憶を巡ること」であり、その悲しみの承継が正しくなされることが望ましいのだが、時としてダークツーリズムの動きは、公の思惑や地域の感情と相容れないこともある、と著者は指摘する。
例えば、2011年3月11日に甚大な被害をもたらした東日本大震災。このときに宮城県石巻市の大川小学校では、津波によって多くの児童と教職員が命を落としてしまったという報道を目にし、心を痛めた人は多いのではないだろうか。この大川小学校で起きた悲劇は、石巻を襲った災害の痕跡を巡る復興ツアーの中に組み込まれ、自然災害とその対策に対する教訓として、あるいは鎮魂として後世に伝えられてしかるべきだと思う人もいるかもしれない。だが実際には、大川小学校における災難は避難誘導ミスが原因であるとして遺族側の県・市に対する訴訟になってしまったため、公的機関が関わる観光コースとしては紹介しにくいという事情があるそうだ。
このように多くの人が亡くなった災害や事故について、事実を教訓として受け継ぐべきでありながら、行政や地元有力企業ともめてしまうとツーリズムとしては成立しにくくなる。歴史は権力側によって作られる、というのは否定できない事実なのだ。だからこそ、正史では追いきれない生々しい悲しみや教訓となる記憶を承継していく手法として、ダークツーリズムは存在意義を発揮し、役割を果たしていくべきなのかもしれない。本書で改めてそう気付かされた。
ダークツーリズムで巡る訪問先は、自然災害や戦争の痕跡だけでなく、病気、差別、公害など非常に幅広いものが提案されているが、そういった悲しみの舞台を「観光する」ことへの抵抗感は、まだまだ強いと言えるだろう。けれども「悲しみの記憶の“断絶”が、さらに大きな悲しみを招来する可能性がある以上、新たな悲劇を生まないためにも、その記憶を確かなものにすることは非常に重要な意義を持つ」と説く著者の説には、説得力がある。もしあなたも賛同したいと思うならば、次の旅の計画にはダークツーリズムのポイントをひとつ盛り込んでみてはいかがだろう。そこにはきっと新たな気付きがあるはずだ。未知なる新しい旅を始める1冊として本書を役立てて欲しいと思う。
文=ナカタク