ドイツでは人を罵倒すると300ユーロの罰金刑? 悪態の研究に取り組む人々
公開日:2018/9/28
東京都は、特定の人種や民族に対して差別的な言動を繰り返す「ヘイトスピーチ」の抑止を目的として、公共施設の利用を制限したり、ヘイトスピーチの主体となった団体や個人の実名を公表したりできる条例を設けようとしている。その主旨は理解できるとはいえ、表現の自由や思想信条の自由との整合性はもちろん、ヘイトスピーチに該当するかどうかを学識経験者らで審査することの妥当性に疑問が残る。そもそもヘイトスピーチの定義が曖昧で、資料によっては侮辱と脅迫が同列に扱われており、現行法にもとづき裁判所に仮処分を申請して止めさせるのでは駄目なのか。もちろん、他人を不快にする言葉など云わないのが良いのだけれど、悪いことなんだから悪いというような単純な問題ではないからこそ、行政も対応に苦慮してきたはずである。
世の中には変わった研究をしている人がいるもので、『悪態の科学:あなたはなぜ口にしてしまうのか』(エマ・バーン:著、黒木章人:訳/原書房)の著者は、人工知能(AI)の開発に携わっていて、問題の根源となる悪態や罵倒語について真剣に取り組んでいるロボット工学者の一人だ。
著者によれば、社会問題を道徳くさい論調で大上段に論じるイギリス随一の発行部数を誇る新聞社から取材を受けたさいに、記者から「もっと世のためになる研究をするつもりはなかったのか」と訊かれたという。悪態や罵倒語の研究が、まともな研究テーマだと世間一般に認知されるのは難しいことを示すエピソードである。しかし、神経科学者や心理学者に社会学者、そして歴史学者などは長きにわたって研究を続けており、本書はそれらを横断的に知ることができる。
悪態や罵倒語の研究で難しいのは、必ずしも敵意を示したり侮辱したりする手段としてだけ使われるものではなく、自分自身や仲間うちでこぼす愚痴として、あるいはウケ狙いで使われることもあるため、とらえどころが無い点だ。
そのため研究分野ごとにも定義が異なっていて、研究者の一人は「罵倒語は話者の精神・心理状態を伝える言葉である」と述べている。それも踏まえて本書では、「命題的罵倒語」と「非命題的罵倒語」に分け、前者は何らかの効果を期待して意図的に発するもの、後者は驚いたり身体的もしくは精神的に傷ついたりしたときに意図せずに発するものとしている。しかし、そうやって整理したとしても、今度は文化面での相違という問題がある。実は罵倒語を明確に取り締まっている国もあり、ドイツでは人を「まぬけな牛」呼ばわりすると300ユーロ、「老いぼれ豚」だと2500ユーロの罰金が科されるという。
つまり命題的罵倒語には明確な意志が込められるわけだが、文化が違うと意味を成さないというのは悪態の効用をも示している。自己と他者、あるいは仲間とその他を隔てることが社会の仕組みを形成することになるからだ。一番古い人類の祖先たちは、生きるために共同で作業するうえで、この悪態を利用してきたのだろうと著者は推察している。また、事故により失語症になった患者でも汚い言葉や罵倒語だけはしつこく残るそうで、いまだ研究途上で確かなことは分かっていないものの、自分の感情を伝えるコミュニケーションツールとなっている可能性を指摘している。
しかし社会が複雑になってきた現代において命題的罵倒語を使いこなすのは、意外と知識を要して頭が良くないとできない。相手が傷つく言葉を考えつつ、自分だけは例外の立場に置かなければならず、そのうえである程度の普遍性も持っていないといけないからだ。その頭の良さを遺憾なく発揮できれば、ヘイトスピーチなどというものは無くせるだろうか。
文=清水銀嶺