『やがて君になる』の映像的妙味は、どのように生まれているのか?――加藤誠(監督)インタビュー

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公開日:2018/10/26

『やがて君になる』AT-X、TOKYO MXほかにて放送中 (C)2018 仲谷 鳰/KADOKAWA/やがて君になる製作委員会

 TVアニメ『やがて君になる』特集では、3名のメインキャストに話を聞いているが、全員が本作の監督である加藤誠について言及していた。演者とのコミュニケーションを大切にして、収録現場が自然とひとつになることを導いた監督のあり方は、完成した映像のクオリティにも確実に反映されている。さまざまな作品で制作進行や絵コンテ、演出を務めてきた彼にとって、『やがて君になる』は2015年の『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』に続いて、監督2作目。自身のクリエイションがどういうものであるかを対象化し、幅広いユーザーに届く作品を目指して力を尽くす監督・加藤誠は、『やが君』とどのように向き合っているのか、話を聞いた。

みんなで同じ方向を向いているような現場を作りたい

――放送が始まって、ユーザーの反応にはどんなことを感じてますか?

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加藤:いわゆるエゴサーチは、まったくしていないんです。何回か開こうと思ったんですけど、今回は作品をちゃんと着地させることに専念しよう、と切り替えました。冷めているわけでは決してなく、燃えたぎっていて、すごく不思議な感覚です。(初監督の)『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』のときは放送が嬉しくて、毎週ライブで視聴者の声を聴いてたんですけど、今回は変化がありました。

――『やがて君になる』の原作と出会ったとき、「いいものができる」という感触はありましたか。

加藤:そうですね。もともと『櫻子さん~』の次も日常ものを手掛けたいなと思っていて、その上で学園、恋愛ものをできたら、というときに原作の絵を見て、自分がやりたい画面作り――僕は空間演出やレイアウトにこだわるタイプなんですけど、この作品はそれができるな、と思いました。僕はわかりやすさというのがあまり好きじゃないんです。結局、作品って自分から離れた時点で、観てくれる視聴者それぞれのものになってほしいんですね。極端ですけど、ヒロインが泣いている姿を目の前で見せるよりも、背中で見せて語る絵の方が、「どういう表情をしているんだろう?」って想像できたりするじゃないですか。なので、足とか手を見せて、ちょっと動いたりピクっとしてる侑や燈子は、どういう表情をしてるんだろう?って考えてもらえたら、と思ってます。観てる人にも、どんどん参加してもらいたいですね。

――実際に完成して、放送に至った映像には手応えを感じていますか?

加藤:そうですね、僕は絵コンテでだいぶ形にしちゃうほうなんですけど、1話が完成したときにそれ以上のものができたというか、何を言われても恥ずかしくないものは作れたと思ったし、作品に関わってくれたスタッフが大変な思いをしても納得してもらえる作品にはできているな、と思いました。

――確かに、コンテを見せてもらったときに、熱量がすごいな、と思いました。出演しているキャストさん3人と話をしても、とにかく監督が丁寧に作品を作られていることが伝わってきましたし。

加藤:そういう空気感が現場で生まれてるなら、嬉しいですね。現場では「とにかく明るい加藤」で……。

――(笑)。

加藤:なるべく現場で監督がヘロヘロしてる姿は見せたくなくて。徹夜明けだろうが、ニコニコしてたらカッコいいじゃないですか。「みんなで作っている感」を共有したい、というのが僕の中のテーマで、監督は現場のプロデュース業でもあると思うんです。だからアフレコの後に役者さんたちに挨拶するんですけど、それは役者さんといっぱい話したいからというわけではなくて、自分が逆の立場なら「ここがよかったです」って言われたら嬉しいと思うんですよ、人間なので。アフレコが終わったら「お疲れ様でした」だけではもったいない気がするというか。

――その考え方に至った源泉は何ですか?

加藤:もともとは制作進行をやっていて、そのときにいろんな現場を見られたのが大きかったかもしれないですね。「自分が監督の立場になったときはどうしたらいいだろう」って頭に浮かべながら見てました。でも、昔からチーム作りを大事にする傾向はありましたね。天才がひとりいるから成り立つっていうのはあまり好きじゃなくて、アニメは総合力だと思ってるんです。みんなで同じ方向を向いているような現場を作りたい、と思っていて、それがずっと続いてると思います。

――原作の仲谷鳰さんも毎週アフレコにいらしていて、今回のアニメに対して相当思い入れを持っていらっしゃる印象があるんですけど、制作上はどんなやり取りをしているんですか。

加藤:キャラクター、特に侑と燈子が難しくて、どうしても踏み込みきれないところを先生に確認したりしてますね。燈子は素の自分自身が大嫌いで、「こんな自分を好きになる人の気持ちは受け入れられない」と。そこの設定自体が、もう、なかなか(笑)。そこで僕が解釈をミスしちゃうと、アニメの中でズレたキャラクターになっちゃうから、最初はそこが一番怖かったですね。シナリオでも、「この子はなんで今こういうセリフを言ったんだろう」って考えて、ズレないようにやってます。

――侑や燈子を描く上で「こういうことかな」って思った軸みたいなものって何ですか?

加藤:3話で絵コンテを描かせてもらって。体育館裏で燈子の素が出るんですけど、そのときに「この言葉やリアクションのひとつひとつはどこから生まれてるんだろう」って、原作の先まで含めて考えて、自分の頭の中で整理したところがあって。そこでだいぶ燈子が見えてきた、というか。先を考えた上での芝居作りは、3話ではすごく意識しました。燈子は、自分からは「気持ちを受け入れない」って言ってるんですけど、なんだかんだ寂しがり屋で誰かを求めてる子じゃないかなって思っていて。「そうじゃない」とは言ってるけど、やっぱり誰かが近くにいてほしい、ひとりにはなりたくないのかなっていう。

 侑もそうなんですよ。自分は人と違って誰かを好きになる気持ちがわからない、でもその気持ちになりたい。ストーリーが進んでいくごとに、彼女の言動や行動で燈子を好きになっていってるんじゃないかっていう描写が出てくるけど、本人は気づいてないわけですよ。序盤の侑って、いわゆる今の高校生と近いというか。受け身、待ちの姿勢で、自分からはいかない。それが、ストーリーの中でいろんな人と会っていくことで、どんどん自分から動いていく子になっていく。そこの切り替えの変化や、どのあたりで変わっていけばいいのかな、ということは考えました。

――なるほど。結果的にその存在によってバランスを取っているのが沙弥香なのかな、という部分もあると思うんですけど、沙弥香の場合は侑と燈子を描くのとは違った難しさがあるんでしょうか。

加藤:そうですね。沙弥香も、燈子に恋をしている女の子のひとりじゃないですか。でも頭がいい分、燈子が思っていることを察しちゃう、というか。それであと一歩、半歩、行くに行けない女の子で。でも沙弥香は、侑や燈子よりはわかりやすいというか、入りやすいキャラクターですね。燈子と侑はなかなか複雑ですけど、その中で視聴者の受け皿になりやすいんじゃないかと思いますし、沙弥香がいることでバランスが取れてるというか。そういう立ち位置にいてくれる沙弥香は大きな存在というか、味になっていると思います。

 槙も槙で、面白いですね。傍観者でありたいと思っていて、口元を隠す芝居があったりするんですけど、それが癖で。今回、最初に先生にお会いしたときに、各キャラクターの癖を知りたいって言った気がするんですけど、キャラ作りをするときにどうしたら存在感が増せるかというと、僕は癖だと思うんですよね。それをマストにしていけば、キャラがちゃんと引き立つ。仲谷先生のキャラ作りは、本当に見事だな、と思います。侑の近くにいるこよみや朱里にしても、たとえば朱里は物語の立ち位置としては「失恋」が彼女のテーマになっているんですよね。侑にとっての失恋というキーワードです。こよみは、「何かを叶えたい」という「憧れ」の要素を含んでいるので、侑にとっての成長の一部を表していて。侑のためのキャラ配置になっているのは面白いな、と思いました。

残る作品は、いかにキャラクターに、作品に寄り添えているか

――先ほど話してもらったように『やが君』は監督としての2作目ですが、1作目で感じた反省点であったり、「次はこうしたい」っていう欲求を作品に投影できている部分はあるんじゃないですか。

加藤:そうですね。2話ではオープンエンドがついているんですけど、オープニングとエンディングって、映像として求められる力が特殊で。僕もオープニングとエンディングへの憧れは昔から持っていて、『櫻子~』のときはスケジュールの事情でオープニングのコンテはなんとか頑張って切ったんですけど、演出はできなくて、あおきえいさんに演出をしてもらったんですけど、僕の中では監督としてオープンエンドのコンテと演出を担当することを、いつか実現したいなと思ってました。それこそ、長井龍雪さんのように、監督が自分でオープンエンドもやってる作品は、すごい作品であることが多い気がしていて。

――確かに、長井さんが作るオープニングはものすごいですよね。本編に入る前に、オープニングだけで泣かせる映像を作っちゃってるというか。

加藤:そうなんです。なので、自分もそっちに食い込めたらいいな、と思っていて。今回はオープンエンドを作るにあたって、曲発注の段階で僕がイメージボードを描いて、「この世界観でオープニングとエンディングを作ります」っていうところで作らせてもらいました。

――『やがて君になる』には「人を好きになるとはどういうことか」」という普遍的なテーマがあって、普段百合作品を観ない、という方にも広く届く作品になっていると思います。今回のアニメでは映像がそれを体現してくれてると思うし、たぶん加藤さん自身も「好きな人にだけ届けばいい」と思って作ってない感じがするんですけども。

加藤:はい。もちろん、原作ファンの方は尊重しつつ、やっぱりものを作っている以上は、ひとりでも多くの人に観てもらいたい、楽しんでもらいたいのはマストですね。それこそ、アニメを観ないような層も巻き込んだもの、誰が観ても楽しめるものを作りたいですね。そこには普遍性がないといけないですけど、その普遍性は『やがて君になる』を最初に読んだときに、「これはまっすぐな純愛なんじゃないかな」って思って。そのときに、これはやりがいがあるなって思ったし、それが決め手になったというか。クリエイターのドヤ顔、みたいなものだけは出さないようにしたいと思っていて――やっぱり、そういう映像もあったりするじゃないですか。作り手が意図して楽しんでいるような作品を観たときは、ちょっと萎えたりしますよね。作った側が偉いなんてことはまったくないし、送り出さないといけない側である以上、あくまで舞台裏のひとり、くらいに思わないといけないので。そういう意味では、作品にまっすぐに向き合えたことでいい方向にいってるのかなって思います。

――先ほどちらっとお名前が出ましたけど、加藤さんはあおきえい監督の作品にいくつか参加されているるじゃないですか。加藤さんにとってあおきえいさんはどんな存在なんですか。

加藤:あおきさんとご一緒したのは『アルドノア・ゼロ』が初めてで、当時僕はいち演出だったんですけど、『いなり、こんこん、恋いろは』でコンテと演出をやらせてもらったときに、監督やプロデューサーが絵コンテを大絶賛してくれたんです。そのときに、作品をプロデュースしていた、TOROYCAの社長の長野さんが、「活きのいい演出がいるから」とあおきさんに紹介をしてくださって。で、実際にあおきさんと『アルドノア・ゼロ』で組ませてもらったときに、ありがたいことにガチッと入ったというか。生意気ですけど、もともと目指している映像の方向性が当時から近かったのかもしれないです。そこからあおきさんにかわいがってもらって、助監のような立場でやらせてもらったのは大きかったですね。『空の境界』や『放浪息子』は外から観てた立場だったので、名前のブランド力が強すぎて、最初はほんと緊張しました。「目の前を通ったのは、写真とかでよく見る生あおきえいじゃないか、みたいな(笑)。ほんとに運がよかったんですけど、あおきさんと出会えたことは、クリエイター人生の中で一番よかったことなんじゃないかな、と思います。師弟関係というわけではないんですけど、すごくリスペクトしているし、「まねぶ」って言うんですかね、「学んで盗む」みたいなことはやってきました。

――あおきえいさんは以前、「作るときは作家性を消したい、だけどフィルムになると必ず何か残っている」という話をしていて、すごく印象的に残ってるんです。監督の立場から見て、「自分がそこにいる必要はないんだ」という感覚は、とても信頼できるというか。

加藤:そうですね。意識しなくてもその人の味が出るというのは、クリエイターとしては贅沢な話ですが(笑)。ただ、作り手である以上、残るものを作りたいと思っていて、それがすべてですね。ちょっとした芝居の演出、たとえば足元だけを見せる芝居に関しても、観たときに自分のどこかをスッとかするような表現できる人になっていければいいな、とは思います。自分もいい演出を観たときに「これは匂いが違うな」と思いますし。さらって流れちゃうものと、厚みがあるもの、匂いが違うものって、もう全然違うんですよね。言葉では説明できないけど何か残った、みたいな。それはほんとに最大の目標で、やっぱりあおきさんの作品にも大きくあるな、と思います。

 今回で言うと、視聴者の方が1話のマグカップ、紅茶の演出を気に入ってる方が多いらしいんですよ。もちろん構成の中では意図して置いてますけど、そこをピンポイントで観てもらえるとは思っていなくて。水がゆがんだときに微妙にハートができるとか、細かい芸であって、「そこを絶対観ろ」みたいな気持ちで作っているわけではないんですけど。まあ、ただの紅茶を真俯瞰でやるのは僕くらいですけど……。

――(笑)。

加藤:「その画面がなぜあるのか」という必然性を入れて絵を作りたいんですね。ただ好きだから空けるとか、そういう単純な考えで作ったものは絶対に伝わらないので。意識していなくても、「こういう意図でいきたい」って思ってると、その絵が生まれるんですよ。なので、必然性をどこまで持たせられるか。なぜ俯瞰なのか、正面なのか、あおりなのか。それを自分の中でちゃんと咀嚼できていれば、カットは自然に生まれていくものなんですね。真俯瞰で紅茶を入れるにしても、別に真俯瞰で紅茶を見せたいわけではなくて、たまっていく紅茶と侑の気持ちのふくらみ、伝えたい気持ちが膨らんでいる比喩にもなるから、自然とあのカットしかない、となる。そうやって作ってますね。

――面白いですね。それこそまさに、作り手としての味なんじゃないですか。

加藤:だとすれば、本当に嬉しいですね。これもよく出る言葉ですけど、絵コンテを描いているときに、ほんとに入っていくと、キャラクターが勝手に動くんですよ。あとは、それを追うだけっていう。自分の頭の中ではこういう感じで考えてたけど、配置してみるとキャラクターが意外なリアクションを取ったりするので、そこを楽しみながら絵コンテを描いたりしてます。それが生まれたときは、厚みのあるカットになりますね。残る作品は、いかにキャラクターに、作品に寄り添えているかだと思うので――寄り添い過ぎて、深くいきすぎて、浮上できないこともよくあるんですけど(笑)。

――冒頭で、今は作ることに専念してるっていう話がありましたけど、『やがて君になる』は加藤さんにとって大きな意味を持つ作品になるんじゃないかと思います。現時点の想像で、この作品は今後の作り手としてのご自身にどんな存在になると思いますか。

加藤:だいぶ、ひとりの演出としての軸が固まってきた、というか。『櫻子~』では断片が見えてきたくらいで、つぎはぎだらけだったんですけど、今回は「俺はこういうことを表現していきたいんだな」っていうことが、ガチッとハマッた感じがします。そういった位置づけの作品になると思います。もちろんベースは1作目の『櫻子~』にもあるんですけど、それがより一層強固になった気がしますね。自分の中で、いいハードルを置けたというか。そのハードルが高ければ高いほど、超えるのも大変になっていくんですけど(笑)。ブレることなく、意図をもってやれている、コントロールできているという点では、これまでで一番手応えがあります。今は見せたいものが完全に頭の中にあって、それを絵として作れているので、そこはクリエイターとしては自信を持っていいのかな、と思ってます。

取材・文=清水大輔

加藤誠(かとう・まこと)
アニメーション監督、演出家。あおきえい監督の『アルドノア・ゼロ』『Re:CREATORS』など、数々の作品で絵コンテ、演出を務める。2015年放送の『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』が初監督作。

TVアニメ『やがて君になる』公式サイト http://yagakimi.com/