『働くおっぱい』「下ネタという私の切り札」/紗倉まな
公開日:2019/1/28
「心臓って左の方にありますか?」
鍼の施術中、整体師さんにこんなことを言われた。鈍痛の中にある微かな快感に浸りながらも、これはどういった趣旨の質問なのだろうか、ともぞもぞしながら考える。
……ん? っていうか、それにそもそも左側に心臓がないことってあるのだろうか。誰か真相のほど、知ってる? 脳内にある限りの情報を咄嗟にかき集めてみてもわからなくて、「たぶん、左の方にあるような気がします」と答えてみたけれど、「緊張する仕事が最近多いですか?」と整体師さんは続けて聞いてくるのである。
……この人……人の心でも読めるのだろうか…。
整体師さんが言ったことをまとめると、透視でも何でもなく、つまりはこういう話だった。
まず、多くの人間は左側に心臓があるけれど、稀に右側(寄り)に配置されていることもあるのだそうだ(!!!)。
そして私は左側に心臓があり、左の肩が凝っているということは、まぁ一概に言い切れることではないけれど、心臓をよく使っているということにも繋がってくる? ふむふむ。心臓をよく使っているということは鼓動を速める機会が多いとも言えるので、すなわち、「よく緊張している」という着地点になるらしい。
へえーーーー、それ、めっちゃ面白い連動性じゃん、と私はひそかに感心したのである。足のここのツボを刺激するとこの内臓の部位が良くなる、みたいな感じ?
押した箇所と作用する箇所の距離は遠いけれど、意外にも綿密にある関係性を見つけ出したような感動があって、私は左肩を労わるような生活をしたいと思いながら、首に鍼を刺されたわけである。
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でも、左肩を労わるにも労わりようがない。
なぜなら緊張は避けられないし、緊張は意思や心持ち次第だけでコントロール可能な容易いものではないと思っている(人、という字を書いて口に飲み込んだとて、吐血しそうなほどに緊張が止まないのだけど、語り継がれているあの可愛らしい魔法はいったいなんなのだろうか。新しい元号になっても大人たちは言い続けるのだろうか)。
緊張をするというのはそれだけ自分にとって刺激のある機会に触れているという証拠でもあるし、一概に悪ではないという持論もある。緊張よりかは、どちらかというと、もっと異なった心の懲りのほうが最近気になっているんだよなぁ。
心の懲りの正体を暴こうとして、真っ先に思いついたものがある。それが、「日本語を聞いているはずなのにどうしても聞き取れない」ということであります。どういうことかって? これだけを聞くとやばい人に聞こえるけど、もしかしたら私は本当にやばい人かもしれない。
日本語ってそもそもなんだったっけ、ってなってしまうといいますか、まあ日本語は日本語でしかないんだけど、聞き取れないんだからさ、これはもう異国語といってしまってもいいのではないかと思っているのだよ。
で、この「聞き取れなくなってしまう」状況。というか、「聞き取れなくなってしまう」条件みたいなものがあって、私が慌てふためくのはたいてい、「大人数」で「自由に思っていることを話している」ときなのだ。
例えば仕事の打ち上げや、友人たちがわいわいと集まって話しているときもそう。アカデミックなテイストの番組や、有識者たちがずらりと並んで討論する様な番組に出るときもそうだ。この「大人数」で「自由に思っていることを話している」状況にガンガンに犯されてしまえば、途端に私の脳内で「あれ、日本語どこいった?」ってなってしまうのである。
すみません、私大人なのに迷子です~~助けて~~的な。こればかりは話の難易度とは関係なく、奇妙な話だけど、一気に言葉という文字がふにゃふにゃと脳内で萎れて、のたうち回るのである。はぁ、これこそが私という歴史の中で常に芽生える心の懲りの正体よ。それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう…。
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まず一つ目に、私には考え方に多少の、というか、かなり大きなずれがあるような気がしている。
例えばこの仕事を始めた理由を聞かれ、「裸でセックスを披露している女優さんを見て、なんて美しいのだろうと思ったんです」と動機を述べたら、「えっまじで。その感覚ちょっとやばいっすね。っていうか変わってますね」と返されて、美的感覚の大きな差異を感じたことがあったけど、それ以前から、周囲との反応が噛み合わないことはしょっちゅう生じていた。関心を寄せる事柄もここには決して書けぬような不謹慎な類の物であったり、友人たちと話していても、自分がふと抱いた疑問を投げかければ「なんで今それを聞くの?」「今はそういう話じゃないでしょ」「その発想、きもい」みたいな雰囲気になって、どこのグループからも排除されてしまうのだ。
要するに、私は「空気が読めない」のだと思う。でもさ、そんなの、どう読めばいいのかわからないし、空気の読み方というのはなんなの、ひとりひとりの温度を測っていけばいいわけ? 難しすぎて詰んだ。オワタ。
しかし、大人王国に入ってからは、空気を読むことはひとつの重大な任務になってきた。オワタとか言っても誰も笑ってもくれない。微笑んでもそれは失笑である。とんでもない難題を課せられた気持ちになったけれど、死活問題にもなりかねないことを重々に承知するようにもなって、次第に、自分なりに空気を読もうとしていたら、「話を聞けない」という本末転倒なことが起き始めた。
というのも、誰かが話していても、おのずと周りの人の反応ばかりを見てしまうのだ。
あ、Bさんが頷いている。Dさんはちょっと目を見開いているから、意外性のある話題だったのかな……。Cさんは「うーーーん」と唸る声が長くなっているけど、こういうときはたいてい肯定的な反応ではないことが多いよね。キョロキョロは続く。はっと閃いた顔をしたから、次はAさんがかぶせる様にして話し出すのかな…お、私の読み、正解!
そうやって一人一人の反応を見て、自分の心の中の反応と同じ人を見ると、ほっと安心をするという習慣がついてしまっていた。
本来は「話している人の話を聞く」ことがメインなのに、「話を聞いている周りの人を見る」というところに大きな集中力が割かれていってしまったせいで、当然ながら、話題についていけなくなっていくのだ。
まぁそれなら、周りの人の反応を見ずに、ひとりの話をきちんと聞けばいいじゃないの。そこにだけ集中すればいいんだし、超簡単な話じゃん。って、思うではないですか。ははは。いや~~~本当にそうなんですけどね。しかしながら、苦手意識というのは思っていた以上に、そうそう変えることが難しい……。
話している人の話をまっすぐに聞いていても、途中から、発せられた言葉が重なったり溶けあっていくような感触へと変わってしまうのである。くっついてしまった言葉を懸命にはがそうとするのだけれど、既にそれは原形の物ではなくなっているのだから、その言葉をどのようにして本来の形に正したらいいのだろうか分からなくてフリーズする。おいおい、自分がんばれよ! あ~~~大福食べたい。って、全然集中してないやんけ!
もうこの際、過去の言葉はさておき、現在進んでいる言葉をきちんと咀嚼しよう、と姿勢を正してみても、淀みなく途切れることのない発言の何が主語となり、何を強調されているのかもわからなくなる“魔の時間”がすぐに訪れる。異国の地に舞い降りたように「通じなく」なっているのである。それがメディアに晒されてしまった実例だってある。
ある番組で話したことが記事となっていた。すいすいっとスクロールしていたら「あぁ、確かに音としてはこんなことを言ってたな…でも文字になるとこういう形になるのか…」と内容がそこでようやく、頭に入ってきた。
多くの人間の中に放り込まれた瞬間、日本語として頭が認識しないように設定されてしまっているみたいで、というか言葉を聞き取る力を奪い取られたようで、相当にやばいんだな、と我ながら絶句した。
でもまぁ、逆に考えてみると、文字としての情報だけのほうがプチパニック状態が排除される分、内容が頭に入ってくるという証明にもなったわけで、そうともなれば、私は会話の中で何かを学び得るという力はないけれど、こうして後から文字化さえしてくれれば、この記事の、つまり、この画面の中では対話ができるっていうことなのか。あぁよかった。いや、全然良くないよ!? この先生きていけるの? 大丈夫なの、自分!?
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同じくらいの時期に、自分の意見のアウトプットの速度も、相当遅いということに気が付いた。閉めた蛇口から滴る水滴みたいに、自分の思考は時差をもって落ちてくるものであるとわかったのだ。周りは、首都高の追い越し車線を走っている車みたいにびゅんびゅん飛ばしていて、その車の後ろに続こうとするも、私は一向に車線変更ができず、かといって並行するほどの速度も出せず、しまいには後ろの車に「へぼそうな車だから煽ってやろうぜ」「いやいや相手にするのもかわいそうでしょ」とすいすいっと追い越されてしまうのであります。ん~~人間大変過ぎん?
でもどうにかこうにか、最近になって、ちょっとずつ話をきちんと聞けるようになった。何かの拍子に、「リズムを取りながら聞こう」と思って実践をしてみたら、案外うまくいったのである。
リズムというのも、句読点の位置になったら肯いてみる、という簡単な取り方だった。
「、」「。」みたいな区切りを、抑揚とか語気の雰囲気から勝手に設定していくのである。そうすると、川を上流と中流と下流というブロックに分けていくような構図が頭に浮かんでくる。
なんとなくの川の形というものが全体像として頭に浮かんできて、「どのブロックが一番心に引っかかったのだろう」と考えて質問や意見を練る。そんな方法を作ることができるようになってきたのだ。
もしかしたら傍から見れば、歪な個所はまだまだあるのかもしれないけれど、なんとなく、空気を吸うところまでには達することができたような気がして嬉しくなった。今のところはこれでいいと思っている。私と似たような人がいたら、ぜひ自分なりの対処法を教えてほしい。
結局、会話ってとても難しいんだな。会話は苦手だけれど、私にも最大の武器があるから、お見せするとしよう。それでは倉庫にご案内しますね。……はいっ。こちら。磨きに磨いた「下ネタ」という剣であります。ピカーッ!
近づいてよくご覧になってくださいませ。申し訳ないですが、触れるのは非常に危ないので禁止となっております。
もちろん下ネタは使い方によっては不快を煽るものだけど、同時に、融通の利く言語でもあるのをご存知でしょうか。そのうちの一つに「擬音を用いることができる」というメリットが、会話の貢献へと絶大な力をもってもたらしてくれているような気がする。
例えば、果実の熟し方を示すときに、完熟しきっていれば「ぐちゅぐちゅ」とか「ぐちょぐちょ」とか用いるし、張りがあれば「ぶりん」としているとか、そういう擬音に落とし込める。
もともとは卑猥なところから生まれたものでなく、日常に溢れている、現存する音なのに、捉え方と言い方を変えれば即座に「エロく」聞こえるだなんて、本当に優秀であると思う。
モンダミンで口をゆすいでいるときに発生する音だって、肉を咀嚼している音だって、カメラの前に立って一言一句をためながら肉声にのっけて強調してみれば、与える効果は変わるわけで。目に触れたものや聞いた音をストックして使用すれば、これこそはけっこう便利な代物である。
広辞苑には載っていないけれど、共有できる言語として擬音はいつまでも残り続けてほしい…と切に願っている次第。
しかしここには、意志や意見が反映されないので、状態を伝えるには適してるけれど、頭の中で考えていることまでもが伝えられない、というのがデメリットでもあるんだよな。しかも唐突に擬音を発し始めたらただの変人だし…といいつつ、たまにやってしまうけれど。
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余談だけれど、もう一つ、自分が適していないと思い、心が凝るのは会話だけでなく、女子の集団行動も含まれる。あれもひどく怖い。
頭から足が生えているのかと見間違うくらいスタイルの良い人の隣に、もしくはぶりんぶりんの胸やおにぎりと同じくらいの顔のサイズの人や、カンナで削られたようなシルエットをもっている人や、目と鼻のバランスが最高に素敵である人と並ぶことも相当な覚悟がいる。
逃げたいし、今から穴を掘って地中にめりこみたい太郎になるし、陥没意識ばかりがめりこんでいって、一向に意識が高くなることもないしさ。明るいモットーなんて瞬間的には最大の味方になるけれど、継続するにはなんて脆いものよ(意志弱っ)。
苦手なものはこれほどあるのに解決方法は一向に出てこないので、最近は粗治療をしている。もうショック療法しかないんじゃないかなーという域に達し始めている。
苦手なものを散々ぶつけてみて、散々自分で自分を悩ませて、思考させて、どうしてこんな風に思うのか、何故苦しいのか、何故自分という存在が突き抜けられないのか、膨大な感情の量には比例しない心の着地点を絞り出すように練っていく、ということを繰り返している。
「あぁそれでも生きているのが辛いわー」と首を垂れた時に舞い降りてくるのは、大体80歳くらいの自分なんだけどね。もはやその時まで生きているのかどうかはサッパリ分からないけれど、だいたい80歳の私が目の前に召喚されているのである。脳内ドラえもんモード炸裂。
多分80歳の私はこんな悩みを抱いていない。多分、80歳の私は、今私が送っている不規則でだらしない日常の皺寄せを主に健康面において背負っていて、身体の節々を痛めながら、「別に今、何かを急いだって病んだって、あんたができることはたかが知れているんだし」って言ってくるのである。
そして続けざまに、「それよりも早く寝てくれない? 将来の弊害になるから」とか足を擦りながら訴えている。
「原稿を2時になっても3時になっても書き終えない~~あぁなんて才能がないんだろう、締め切りも守れないし心の健康も守れないし死にたい……とかほざくのやめて寝てくれる?」
ハイ。
「そんでもって、気が付いたら息抜きに部屋の掃除とかし始めて、朝の5時くらいに寝たりしてさ」
……ハイ。
「そりゃ決めた時間に起きれなくなるでしょうよ。バタバタして仕事に向かうっていうのもやめた方がいいと思うのよ」
ハイ。そうです。その通りです。
「最近どうですか」と尋ね返してみたら、「まぁ最近緊張するのは、人との対話よりも階段の上り下りくらいだね」って左の肩を擦っているのを見せつけられる。まぁそうだよな。そうだよね。納得したタイミングで「じゃっ、頼んだよ」と足を引きずりながら未来の私は去っていくのである。SFおっぱい、終了。
あぁ早く、80歳になりますように。いやでも、身体を痛めているのなら、それはちょっといやだなぁ。そんな一人遊びにも飽きた頃、ライン通知も未読のまま目覚ましを設定し、明日も日本語と葛藤している姿を瞼の裏に思い描きながら、今日も枕に顔を擦りつける。
左肩はまだ、というか当分痛い。
バナーイラスト=スケラッコ
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。
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