内定を呼ぶ「見えない交渉力」! 慶應の大人気講義『交渉学が君たちの人生を変える』

暮らし

公開日:2019/1/30

『交渉学が君たちの人生を変える』(印南一路/大和書房)

 私たちの日常は交渉に囲まれている。スーパーで販売される商品には目を引くポップが付いており、テレビやネットを見ればたくさんの広告。あらゆるものが私たちに「買ってくれ」と訴えかけてくる。

 買い物だけではなく、就職活動の面接も交渉のひとつだと言える。すでに内定をもらっている学生は「この先どれだけ不採用にされようが、社会人として働く場所は最低限確保できている」という余裕が生まれるので、面接時に採用担当者に臆することなく本来の力を発揮できる。一度内定をもらった学生が次々に追加の内定を獲得する現象は、この「見えない交渉力」が働いているからだ。

 交渉は私たちの人生において切っても切れない関係にある。つまり交渉術を磨くことは人生をより豊かにする。そこで交渉術に興味を持つ人におすすめしたいのが『交渉学が君たちの人生を変える』(印南一路/大和書房)だ。著者は慶應義塾大学の教授で意思決定・交渉論と医療政策を専門とする印南一路先生。本書は印南先生が行う応募者殺到の人気講義を書籍化したものだ。

advertisement

■世に出回る「悪魔の交渉術」を多用すると信頼を失いかねない

 世に出回る交渉に関する書籍の中に、高圧的に出ることで強引に成功に導く「悪魔の交渉術」や、それに似たタイトルのものを多数見かける。しかし、これらは短期的な交渉を成功させるテクニックだ。中長期的な付き合いを前提としたビジネスでの交渉には不向きであり、一度高圧的な交渉術を使うと悪評が立つリスクもある。どうしても活用するときは、それなりの覚悟や技術が必要だ。

 その点本書は、「そもそも交渉とは何か?」という概念的なものから始まり、後述する「BATNA」といった交渉学の基本を解説し、人生のさまざまな場面で活用できる「正当な交渉術」を読者に教えてくれる。さらに「悪魔の交渉術」を使う人と出会ったときの対処法も解説しており、まさに交渉学の教科書のような1冊だ。

 本書は交渉学を深掘りして解説しているので読み応えがある。そこでこの記事では「正当な交渉戦術のごくさわりだけをご紹介したい。

■交渉において最も基本的で重要になる「BATNA」

 交渉において最も基本的で重要になるのは、交渉時にたくみに相手をそそのかして納得させる話術ではなく、交渉前の準備だ。その1つに、これから行う交渉がうまくいかなかった場合に備えて、あらかじめ用意した代替手段「BATNA(バトゥナ:Best Alternative To Non Agreement)」がある。

 たとえばマイカーを購入したいとき。買いたいと目を付けた新車が、ある販売店で580万円だった。別の販売店を訪れると同様の新車が売られており、ディーラーから「600万円でいかがですか?」と声をかけられた。このとき別の販売店で「580万円」であることを知っているので「600万円」で購入する必要はなく、「580万円以下で購入したいです」と強気に出られる。

 また事前にその新車の情報をさまざまなルートで仕入れて相場が「550万円」と判明したとき、「なぜ相場より高い金額で販売されているんですか?」とディーラーに質問できる。

 どのような交渉でも、まずは自分が得たい利益や相手の状況などの情報を徹底的に入手・分析し、不利な交渉を持ち掛けられても揺るがないスタンスを保つ「BATNA」を用意することが大切だ。

■交渉の最終結果に最も影響を及ぼす「アンカリング戦術」

 具体的に交渉に入るときに活用したいテクニックとして「アンカリング戦術」がある。これは情報が少なくてあいまいな状況で判断を求められると、どこかに判断の錨(アンカー)を下ろし、そこから調整する人間の直観的な判断プロセスを応用した戦術だ。

 アンカリング戦術は家電売り場でよく見かける。たとえば一眼レフカメラの価格「19万8000円」という表示を二重赤線で消し、「特価16万8000円」という再表示がなされている。これは消費者の判断をいったん高めのメーカー希望小売価格にアンカリングし、小売価格をより安く感じるように誘導する例だ。

 交渉の最初に出される当初提示価格(アンカリング)は、どのような交渉話術やテクニックよりも、交渉の最終結果に影響を及ぼすことが証明されている。

■アンカリング戦術を左右する「留保価格」

 では、どのようにアンカリングすれば交渉が優位にはかどるのだろう。そこで注目したいのが留保価格だ。たとえばディーラーが「なんとか500万円以上で新車を売りたい」と考えていて、車を買いたい客が「なんとか550万円以下で買いたい」と新車を探していたとする。両者を比べると、500万円から550万円までの「交渉の幅」が存在する。これを「留保価格」と呼び、この幅の間で両者が調整を行う「交渉のダンス」を繰り広げる。

 もし車を買う客がアンカリングをするときは「500万円で~」と交渉すると良い結果が生まれるとされ、ディーラーは「550万円で~」と言い値を出すと良い結果が生まれやすい。

 しかし交渉の奥が深いところは、このアンカリングに失敗するとむしろ交渉が不利に傾くことがある。さらに留保価格をあらかじめ入手できるのはまれなので、たいてい交渉を行うときはお互いが留保価格を探り合うことから始まる。交渉でいきなり的を射たアンカリングを行うのは、素人には難しい。

 そこで留保価格を探る技として2つのテクニックがある。それが「アクティブ・リスニング(積極的聴取)」と「質問技法」だ。これらの詳細については、ぜひ本書を手にとって読み込んでもらいたい。

 また、アンカリングは先に行ったほうが有利。もし先にアンカリングを打たれてしまったとき、有効な技が2つある。「無視」と「笑い飛ばす」ことだ。これらは第3章「正当な交渉戦術」で詳細に解説されている。

 私たちの日常には交渉がいくつも見え隠れする。商品を購入するとき、誰かと利害ある話し合いをするとき、就職活動をはじめとする自分をどこかに売り込むとき。

 交渉は決して、店先で行う「これ安くしてよ!」だけでなく、自分と相手の相互で利益を分け合う手段の1つだ。ちまたにはびこる一面的な交渉術のせいで印象が悪くなりがちだが、交渉学は私たちの人生に深く関わる学問。これを機会に交渉に少しでも関心を持ってもらえたら幸いだ。

文=いのうえゆきひろ