看護師ならではの闘病記録が冴える。『車いすの看護師』の実録エッセイ
公開日:2019/2/20
介護福祉士の友人から、愚痴を聞かされたことがある。友人が勤める介護施設では身体障害のある職員が働いており、介護が必要な入所者の世話だけでなくその職員の面倒も見なければならないのが大変という話だった。ただし、不満の矛先は障害のある職員ではない。受け入れておきながら必要な方策を講じず、現場に丸投げしている経営陣に対してだ。そんなことを思い出したのは、傷病者を看護する看護師が病魔に襲われ、歩行困難となるも復職した手記、『車いすの看護師 がんばれ わたし 働けることの喜び、そして私の生きる道』(川上美代/文芸社)を読んだからである。
昭和33年に生を受けた著者の両親は大正生まれで、母親は著者に「美代子」と名づけたのに役場へ行った父親が、年老いたら恥ずかしい名前だろうと思い、勝手に「子」を抜いてしまったという。そのため、母親だけは著者を「美代子」と呼んでいたのだとか。そんな母親が若い頃にはまだ、「女性は、勉強する必要がない」と言われていた時代だったため、看護婦になる夢を断念した母親と、女の子が生まれたら看護婦にと願っていた父親は、著者が看護婦の道を選んだことをとても喜んだそうだ。
看護師となった著者は結婚して二人の娘に恵まれるが、昭和から平成になる年の1月に体調が急変する。実は前年の12月上旬から、発熱し、乳腺部と背中に痛みを感じていたらしい。それが平成となった1月8日には、膝下である両下腿(りょうかたい)に力が入らなくなった。ここから始まる闘病生活の内容が、看護師らしい淡々とした記録と、患者としての不安感といった心情とがない交ぜになっていて、独特の雰囲気である。入院中に足の麻痺に気づいてナースコールで看護婦を呼ぶも、医師に報告して戻った看護婦から鎮痛剤を打って様子を見ると告げられ、「完全麻痺を訴えているのであって、鎮痛剤がほしいわけではない」と突っぱねたやり取りは、医療従事者と患者との間の隔たりを感じさせられる。
乳腺炎による「胸・腰椎移行部脊髄硬膜外膿瘍」と診断された著者は、膿を吸引する手術を受けたものの神経がゴムのように伸びた状態で完全には戻らないため、医師から両足に麻痺が残ると告げられたという。しかし、神経が切れていないことに着目した著者は、リハビリを続けながら復職することを決意する。麻痺を訴えたときの看護婦とのやり取りや、別の看護婦が部屋のドアをノックしたときにはもう「失礼します」と言って入室してくるのを体験したことで、「ベッドの上で学んだ思いを、無駄にしたくない」と思ったからだ。
家族と主治医などの協力を得た著者は、放射線科外来への配置となった。仕事内容は検査の介助や患者さんの状態を観察するという、車椅子でできるものではあったとはいえ、検査手順や用語を一から覚えなければならないのが大変で、それ以上に精神的にこたえたのが、物珍しさもあってか患者さんからの目や厳しい声だったそうだ。それでも、著者は放射線科の医師から、通常の医師が患者さんを診て診断するのに対して、フィルムを診て病気を探す放射線科医は医師のための医師「ドクターズ・ドクター」だと聞かされ、新たな看護観をいだくようになる。看護師は駆けずり回って時間に追われ、患者さんに傾聴するのが難しい。自分が目指すべきは看護師のための看護師、「ナースズ・ナース」だと思い定めた著者は、初めて勤務交代を希望し内科へと異動する。自ら希望した以上は、失敗しても放射線科には戻れないと覚悟して。
著者は、自身が教訓として学んだことの一つに、世の中が身障者に対して「色々な面で便利(原文ママ)を図ってくれる」ことを挙げ、それを当たり前と思わずに「ありがとう」と感謝したいと述べていた。病気や事故は誰にでも起こりうる、でもどこか他人事にも思えてしまう、障害者の復職や社会参加について考えさせられる一冊だった。
文=清水銀嶺