「もしヒトラーが勝っていたら」「もしヒトラーが女性だったら」歴史の“if”を巡る社会学の意義
公開日:2019/4/19
「歴史にifはない」とは、よく聞く言葉だ。「もし織田信長が本能寺の変で死んでいなかったら」とか「もし日本が第二次世界大戦で勝っていたら」などと言ってみても、そうならなかったからこそ、いま私たちの知る歴史や現在があるわけで、「もし」などと言っても始まらないと思うだろう。
だが、誰もがそういった「歴史上のif」を一度は想像したことがあるだろうし、個々の人生においても、「もし、あの人と結婚していなかったら」とか「もし、別の会社に入っていたら」ということを考えてしまうことは多い。このような、「もしもあの時――」という思考方法のことを、事実に反する結果を仮想(想定)するので「反実仮想」という。
その「反実仮想」について多角的に考察するのが、『「もしもあの時」の社会学 歴史にifがあったなら』(赤上裕幸/筑摩書房)だ。著者は『ポスト活字の考古学 「活映」のメディア史1911-1958』(柏書房)なども著した気鋭の社会学者である。
本書は「反実仮想」についての考察といっても、「ヒトラーが勝利していたら、歴史はどうなっていたか」とか「もしケネディが暗殺されなかったら」といった具体的な「歴史のif」をシミュレートするものではない。「反実仮想」について人々が考えてきた歴史と、その思考方法にどのような意味があるのかということを分析するものだ。そのため、分析対象になっているのは、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』に代表される歴史改変SFや、荒巻義雄の「紺碧(こんぺき)の艦隊」シリーズなどの架空戦記といったフィクションから、社会学者のウェーバー、歴史学者のファーガソン、哲学者のベンヤミンなどの学術論考までと多岐にわたっている。
■「反実仮想」は、歴史を多角的に見直す思考法である
そもそも、なぜ社会学者である著者が「反実仮想」の考察をするのかについては、本書でも取り上げられている社会学者・大澤真幸による社会学の定義がわかりやすい。大澤によれば、社会学とは「現に起きているある社会現象に対して、『現に起きているのに、どこかありそうもないという感覚』を持ちながら現象を分析し、『なぜこんなことが起きてしまったのか』と問い、その因果関係を探求する学問」だという。
そこで、「反実仮想」が大きな意味を持つ。つまり、「ヒトラーの影響力」を社会学的に正確に分析しようと思えば、「ヒトラーが存在しない状況」のシミュレーションが必要になるのだ。しかし、学問的に厳密な形で「反実仮想」を扱うのは意外と難しい。たとえば、「もしヒトラーが女性だったら」というifは、フィクションの題材としてはおもしろいかもしれないが、現実的には当時の社会状況で女性が権力を握る可能性はゼロであったし、分析する意味がなくなってしまう。「起こってもおかしくはなかったが、実現しなかったこと」を設定するのは、なかなか難しいのだ。
また、反実仮想は、短期間のシミュレーションならばそれなりに蓋然性(がいぜんせい:ものごとが起こる可能性の度合い)を持ち得るが、長期になればなるほど関係する要因が増えるので、「あり得る結果」が無限に広がってしまうという弱点を抱えている。さらに、反実仮想の致命的な弱点は、その思考実験の正しさを証明する証拠が“一切ない”ということだ。ようするに、なんとでも言えてしまうのである。
それゆえ反実仮想の思考は、へたをすると「みんなが正しいと思っている歴史と真実は違う」といった歴史修正主義や陰謀論に結びつきやすい危険性をつねに孕(はら)んでいるという。たとえば、「もしホロコーストがなかったら」という反実仮想の“思考実験”だったはずのものが、いつのまにか「本当はホロコーストはなかった」という偽史や主張にすり替わってしまいかねないのだ。
このように、学問としての反実仮想には、欠点や弱点もあるが、同時に魅力的な思考方法であり、歴史に対してさまざまな角度から光を当てることで、よりリアルに「いまある現実」をとらえられる手段であることも事実だろう。
【あわせて読みたいもう1冊】
レビュー中に登場する社会学者・大澤真幸による社会学の定義は、社会学とその歴史を語ったその名も『社会学史』(講談社)を読むことで、さらに理解が深まるだろう。
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文=奈落一騎/バーネット