朝井リョウの原点はさくらももこ作品! 宇垣美里アナが“上京を決めた1冊”とは?
更新日:2019/5/14
2019年3月23日、「本のフェスBOOK FES 2019」で、直木賞作家・朝井リョウ氏とTBSアナウンサー(当時)・宇垣美里氏による「平成の文学」対談イベントが行われた。平成生まれ、同世代である2人が、自身が影響を受けた本について語る、笑いの絶えない会となった。
■朝井リョウが影響を受けた本
朝井リョウ
【原点となる作品】
・佐藤多佳子著 『一瞬の風になれ』
・さくらももこ著『もものかんづめ』他 さくらももこ氏のエッセイ集
宇垣美里氏(以下、宇垣) 朝井さんは今までどんな作品を読んでこられたのでしょうか。
朝井リョウ氏(以下、朝井) こういう話題のときに必ず挙げるのが佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』です。この本は永遠に売れ続けていてほしいので、永遠に言い続けます。陸上部の高校生の3年間を描いた青春小説なんですが、純粋に、人生で一番「読み終わりたくない!」と思った本なんです。どんなに嫌なことがあっても本を開けばあの続きが読める、というか、命を引き伸ばしてくれるくらい夢中になった作品です。そう考えるとすごいですよね、本って。
宇垣 生きる意味になりますからね。
朝井 本当に。読み終わりたくないんだけど、面白いからどんどん読み進めてしまうっていうジレンマを人生で一番味わいました。今でも私の中で、一番星です。いつか、誰かにとっての『一瞬の風になれ』のような作品を書きたいです。
宇垣 以前、さくらももこさんのエッセイもお好きともおっしゃっていましたよね。
朝井 そうです。さくらももこさんのエッセイも私の原点です。『一瞬の風になれ』は、スペシャルな小説を読むときの「最高!!!」を思い出させてくれるという意味で原点なのですが、さくらももこさんはもっとそれ以前の、「文章を読むって楽しい!」ということを思い出させてくれるんです。私、国語を嫌いな学生が多いことって仕方がないと思っていて、文章ってなんだか正しく読まなきゃいけないという圧があるじゃないですか。読書感想文では読書を通して正しい人間になったことを書かなきゃいけない感じがあるし、国語の試験では「主人公の気持ちとして正しいものを選びなさい」なんて設問がたくさん。でも、さくらももこさんのエッセイは、すべての正しさから解き放たれているというか、読み手が何かを得ようという姿勢すら拒む、徹底したナンセンスで構成されているんです。私も、たとえば直木賞なんて大きい賞をいただいちゃうと、「何か社会にとって正しいことを、ためになるようなことを書かなくちゃ」という圧を勝手に感じることがあるんですけど、そういう時にさくらももこさんのエッセイを読み返すと、そんなの関係ないや、と思わされる。文章楽しいイェーイ!みたいになれるんです。
朝井リョウ
【エンタメ作家の自覚として】
・野沢尚著 『反乱のボヤージュ』
・貴志祐介著『悪の教典』
【最近の目標として】
・堀江敏幸著『なずな』
・松家仁之著『光の犬』
朝井 私は、エンタメ作家であろうという自覚をもっているんです。他人が楽しいものばかりに筆を委ねることもしないですが、「誰にもわかってもらえなくても…」というような自己満足の芸術家にはなりたくない。その点で野沢尚さんの『反乱のボヤージュ』は素晴らしくて、ある大学の寮が潰れてしまいそうになるところをどう立て直していくかという作品なんですが、物語を読むにあたって味わいたい感情が「全部乗せ」なんですよ。どの人物のどのエピソードでも喜怒哀楽どこかの琴線が震えるんです。心ごと乗っかってどんどん読み進められる快感があります。その真逆で、『悪の教典』にも触れておきたい。『反乱のボヤージュ』は、共感がエンジンになっている小説ですけど、『悪の教典』の主人公は共感覚が一切ないサイコパスなわけです。つまり『悪の教典』は、物語の構成力のみで、上下巻を一気に読ませる。これってとんでもない筆力だと思うんです。
宇垣 共感ゼロ。救いもない。
朝井 そう。でもあっという間に最後まで読まされるし、さらに読後、救いはないのに爽快感はあります。読者を共感させれば、感動させれば、泣かせればいいわけではないということを思い知らされます。あと、最近の目標としては、堀江敏幸さんの『なずな』と松家仁之さんの『光の犬』があります。『なずな』は主人公の男性が突然、生後二か月の乳児「なずな」を育てていく話で、『光の犬』は北海道に根づいた一族三代の百年が、時空を飛び越えながら描かれている話です。どちらも、大きな事件が起きるわけでもないのに四百頁超えの長編を一気に読ませるんです。その理由は、とにかく文章が美しいから。知っているはずだった言葉が、使い方ひとつ変えるだけでこんな風に輝くんだっていう瞬間の連なりなんですよ。起承転結とか共感も大事な要素だけれど、小説にとって一番大事なのは文章そのものの力だということを思い知らせてくれる作品です。
■宇垣アナが影響を受けた本
宇垣アナ
【原点に近い本】
・山田詠美著『風葬の教室』
・坂口安吾著『堕落論』
【しんどいな思った時に読む本】
・辻村深月著『凍りのくじら』
・桜庭一樹著『少女七竈と七人の可愛そうな大人』
・ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』
朝井 宇垣さんは、目に見えないところに落ちている真実みたいなものを言葉で表現してくださっている気がします。たとえば、ネットニュースの記事の見出しで「宇垣アナ、『生きていて申し訳ない』」っていうのが出てきたとき、私いつか絶対に何か役立つと思ってスクショまで撮ったんです。経歴や外見で宇垣さんのことを捉える風潮がある中、バキバキに光って見えた一行というか。ディズニーランドと同じように人間を見てはいけないと多くの人が思い知ったはずです。
宇垣 あまりにも瞬間で反応する人というか。裏まで考えない人にとってはそうなのかもしれませんね。
朝井 この一、二年くらい、宇垣さんが、テレビの世界や“女子アナ”の世界の中から「ここにはこういう言葉が落ちてるんだよ」と掌を差し出してくださっている気がします。『悪の教典』を楽しむ自分に出会うたび、ディズニーランド以外で見たものを見たまま受け取る風潮が広がってはいけないと思うのですが、宇垣さんは最もディズニーランド的に見られそうな立場から、世界に言葉で中指を言葉で立てている印象があります。そして、宇垣さんの書かれている文章を拝見すると、根底に諦めや絶望というのがまずあって、そこから手をのばしていくときの筋肉の軋みを感じるんですよね。同時に、これまでたくさん文章を読んできた人の自然なバランス感覚みたいなものを感じるのですが、元々本はお好きだったんですか。
宇垣 好きですね。特に山田詠美さんがすごく好きで、中学生・高校生の時に読んでいました。なかでも、『風葬の教室』は、最高の小説だと思っています。周りからハブられている女の子が、それに対してどうやって立ち向かうかっていう話で、昔からやっかみを受けやすい体質ではあったので、非常に勉強になりましたね。もしかしたら、私の「マイメロ論」の原点なのかもしれないですね。相手が理不尽なことを言ってきても、「マイメロに向かって何か言っている」って考えるようにしているのと同じことを、『風葬の教室』では、「心の中で墓場に埋める」って書いています。あと、これも中高生の時に読んだんですけど、『堕落論』も好きです。ちょっと世の中を斜めに見つつ、「人間はそもそも堕ちている存在で、だからそこから手をのばしてがんばって生きていかなきゃいけないんだ」っていう考え方が私はすごく好きで。
朝井 うかがうと、確かに宇垣さんの思想にすごく影響を与えていそうですね。10代の時にたくさん本を読んでいたんですね。
宇垣 そうですね。あと、10代に読んだ本だと、桜庭一樹さんの『少女七竈と七人の可愛そうな大人』は、受験期に読んで、東京に出ようと決めた一冊ですね。主人公の七竈に対してある大人が、「頭がよすぎるものも、悪すぎるものも。慧眼がありすぎるものも、愚かすぎるものも。性質が異質で共同体には向かない生まれのものは、ぜんぶ、ぜんぶ、都会にまぎれてしまえばいい」って言う場面があって。「なるほど。都会にいけば紛れられるのか」と思って、東京を目指しました。
朝井 めちゃくちゃいい文章…。紛れられる、って、これ10代の時に触れていたらおまじないになるだろうなぁ。
宇垣 そうですね。どのタイミングで読むかでも、受け取り方が変わっていくもので、それこそ、しんどい時に何度も何度も読み返します。大人になってから読むのも全然違うものですね。
●「平成」の対立…『死にがいを求めて生きているの』
宇垣 朝井さんの作品は、「気づきたくなかった…」っていうところを言語化してくれますよね。わかっているし、思っていたんだけど、それを連続的に言語化されると、胸が痛いというか、絶対に他人でいさせてくれないっていうか。そういうところが朝井さんの本の気持ちいいところであり、意地が悪いなって思うところです。朝井さんの新刊『死にがいを求めて生きているの』も読みました。この本も本当に朝井さんらしい、えぐってほしくなかったところをえぐってくる本でした。
朝井 ありがとうございます。螺旋プロジェクトという大きな企画の中の1冊です。8組・9人の作家が、「対立」というものを大きなテーマにして、各時代について担当して書いていくというプロジェクトなのですが、私は「平成」を担当しました。ただ、企画開始当初は、平成の「対立」というものがなかなか思い浮かばなかったんです。
「昭和と近未来」をテーマとした、伊坂幸太郎さんの『シーソーモンスター』は、嫁姑の人間関係を中心にして描いたり、「中世・近世」をテーマとした天野純希さんの『もののふの国』では、源平の戦いを描いていたり、時代ごとに「いかにもその時代の対立」というものが取り上げられていたのですが、私はなかなか見つけられなかったんですよね。宇垣さんは平成3年生まれで、私と同じく結構ちゃんとしたゆとり世代だと思うんですけど。
宇垣 がっつりゆとり世代ですね。
朝井 だから、あまり対立や競争を強いられてきたというよりは、「自分を大切に」だとか、ヒットソングにあるように「No.1よりオンリーワン」っていうようなことを言われてきた感覚がありませんか。
宇垣 そうですね、成績も相対評価だったのが、絶対評価になって、周りと比べるんじゃないっていう時代ですもんね。
朝井 けれど、いくら「あなたの個性を大事に」と言われても、自分の個性って単体では認識できない。最近、日々の暮らしの中で、なんでそのことにそんなに怒れるんだろう、という人をたくさん見つけてしまうのですが、もしかして、自分の言葉をぶつけられる場所を確保することで自分の輪郭を把握しているのかな、という予感がしたんですね。対立がなくなってきた時代だから、対立がありそうなところに身を投じて、自分の存在を確認していくのかなと思ったんです。そしてそれは自分自身にこそ思い当たる感覚でした。
たとえば、平成で起きた様々な象徴的な事件の犯人の供述を読むと、「自分は社会的に価値がない」という話をしているケースが複数見られるんですね。オンリーワン礼賛の世界で生きているのに自分の価値がわからない、人と比べたり対立することでしか「自分らしさ」を見出せない――多様性という言葉の影にあるものって、「こんな自分なんて」という自滅的な気持ちなのかなと思うんです。まさに私がそうなんですね。そして、私の場合、自滅的な思考が自分を痛めつける方向に働くのでまだ罪を犯してはいないのですが、自滅的思考が他者や社会を傷つける行為に働くケースにも、とても心当たりがあったんですね。そう考えると、遠くにあるものだと思っていた色んなことが、すべてつながっていくような気がしたんです。対立ではなく“平らかに成る”と書く平成の時代、多様性の裏にある自滅的思考、絶対評価で「No.1よりオンリーワン」……きっと読み手によって感想が全く変わる小説になったと思います。
宇垣 朝井さんの本は、読むと、いつも胸が痛いです。ただ、その胸の痛さの中に、「でも、本当はこう言ってほしかった」「本当は誰かにこうやって刺してほしかったんだ」っていう気にさせられる、気持ち良さみたいなのもあるのかなと思いますね。ぜひみなさんにも手にとってもらえればと思っています。
取材・文=アサトーミナミ