本屋大賞受賞作『そして、バトンは渡された』の次に読むべきはこれ! 生き別れの息子との共同生活を描く『傑作はまだ』
更新日:2019/5/26
本屋大賞受賞をきっかけに『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ/文藝春秋)を読んだ方は、ぜひとも最新刊の『傑作はまだ』(ソニー・ミュージックエンタテインメント発行、エムオン・エンタテインメント発売)を手にとっていただきたい。血の繋がらない父と娘がともに暮らすことで家族になっていった前者に対し、後者は、血は繋がっているけれど一度も会ったことのなかった父と息子が、つかのまの共同生活を送ることになる作品だ。
客観的にみて、主人公の加賀野は“だめ男”である。合コンで出会った美月と一夜限りの関係で子供ができたと知ると「好きでもない女と結婚なんて人生が終わったも同然」と嘆くし、その気持ちを美月に隠そうとする気遣いもない。養育費を毎月欠かさず振り込むのは立派だが(当たり前だが)、かわりに送られてくる写真でしか息子に関わろうとはしないし、20歳になってその関わりが途絶えても、様子を気にするそぶりもない。それどころか、そのまま息子の存在は彼の人生から抜け落ちる。そんな彼の前に、ある日前触れもなく、25歳になった息子の智(とも)が現れる。
智は、なんの感慨もなく加賀野を「おっさん」と呼ぶ。やってきた理由は「新しい仕事先に通うのに、加賀野の家が便利だから」。ただそれだけ。加賀野にはないコミュ力と押しの強さで強引に同居にもちこんでしまうのだが、この共同生活も“感動の父子の再会”にはほど遠い。加賀野はあいかわらず、同じ家で智が熱で寝込んでいても気づかないし、本人を目の前に智の生まれたいきさつを「過ち」と言い放つ。鈍感をとおりこした無神経さは、それなりに売れている引きこもり作家であるがゆえに許されてきた。
けれど生まれて初めて深く関わる相手ができて、加賀野は自分の至らなさを逐一、思い知らされていくのである。
〈現実の世界は小説よりもずっと善意に満ちている〉と、智は言う。でもそれは、智が積極的に人と関わろうとしているから。目の前の人が何に喜び、何に悲しむか、想像してみることができるからだ。
ずっとひとりきりで生きてきた加賀野には、それができない。老人は耳が遠いかもしれないということも、誕生日を祝われたらそれだけで相手が喜ぶということも、わからない。「こんな当たり前のこともわからなくなってるなんてやばいよ」と智に笑い飛ばされながら、自分の見ていた世界が、独りよがりな想像でつくられた虚構の物語であったことに気づく。“人間の本質たる闇”を描くことで定評のあった自分の作品にも疑いのまなざしを向け、ほんのわずかだけれど、成長を見せるのだ。父親として、そして一人の人間として。
善意を疑い斜に構えるのは、ある意味でとても楽な生き方だ。けれど、ときにわずらわしくても、人に優しくあろうとする想像力をそなえたほうが、人生はずっと楽しい。血の繋がりがあってもなくても、その想像力さえあれば誰かと家族になり友達となり、ともに生きていくことができる。そう信じさせてくれる小説である。
文=立花もも