横浜の4つの外国人墓地。最も悲壮感漂う墓地の片隅で見た闇とは
公開日:2019/6/4
横浜にある「山手外国人墓地」は、人気観光スポットのひとつだ。海が見え、墓地とは思えない開放的な空気があるため、多くの人々が足を運ぶ。そんな墓地と対照的なのが、近くにありながら薄暗い草の中にひっそりと設けられている「根岸外国人墓地」。ここには、終戦後の日本を生き抜こうとした女たちの想いが眠っている。
『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』(山崎洋子/亜紀書房)は、女性たちの生き様と叫びをすくい上げる1冊。著者の山崎さんは、幼い頃から横浜に憧れ続け、本書を通して「国際社交場」という言葉で覆い隠され闇に葬られてきた横浜の「陰の部分」にスポットを当て、戦後横浜を辿ることにした。
■名前もわからない嬰児の遺体が多く眠る「根岸外国人墓地」
横浜には4つの外国人墓地がある。ひとつは、先述した「山手外国人墓地」。中区山手にあるこの墓地には、開港期の横浜に貢献した外国人が埋葬されている。2つめは保土ケ谷の「英連邦戦死者墓地」、3つめは中区大芝台にある「中華義荘」。中華義荘には、中国から移住してきた中国人とその子孫が眠っている。そして4つめが、横浜の人にもあまり知られていないという「根岸外国人墓地」だ。
根岸外国人墓地は1967(昭和42)年まで管理者もおらず、墓地としての使用も終戦後許可されていなかった。しかし、横浜で生まれ育った元教師の田村泰治さんが1984年から墓地の清掃とともに歴史調査を開始。埋葬者を調べ上げていったところ、衝撃の事実が明らかとなった。
放置状態だったせいか、実際の墓石は150基程しか残っていなかったそうだが、田村さんを驚かせたのは、2本の木を十字に重ね合わせただけの白い小さな十字架が、ある地点にびっしり立っていたことだ。その碑銘を調べてみると、ほとんどが終戦直後の昭和20年から数年以内のものであることや、アメリカ人と日本人女性の間に生まれた嬰児が多くこの場所に眠っていることが分かった。その数は800近い。
このように嬰児が埋葬されたのには理由があるという。終戦後、横浜には進駐軍が入り、中心部のほとんどは米軍の接収地となった。すると、ある時期から山手外国人墓地に嬰児の遺体がこっそり置いて行かれるようになったのだ。今なら大事件だが、終戦後間もない当時は身元不明の遺体は珍しくなく、日本の警察は占領軍であるGHQの前に無力だったため、その問題には関わりたくないという姿勢を見せたそう。
そんな様子を見かねたのが終戦後、山手外国人墓地の管理人だった安藤寅二さん。当初は山手外国人墓地の空いているスペースに嬰児の遺体を埋葬していたが、日ごとに増える遺体を、米軍が接収している根岸外国人墓地に埋めることにしたのだ。米兵と日本人女性との間に生まれたであろう子は、なぜ亡くなり、孤独に葬られなければならなかったのだろうか…。
■残酷な差別と偏見の歴史を振り返ると――
現代では混血という表現は差別的表現だ。長い鎖国時代を経験したかつての日本では、外国人の風貌だと奇異の目で見られたそうだ。そうした背景を踏まえると、社会的な力のない者や娼妓から産まれた子が生きていくことがどれだけ難しかったのか窺える。時代を遡り徳川家光が将軍の座に君臨した頃、混血児は日本人としては受け入れることができないとされ、その父母兄弟もろとも国外追放するという厳しい沙汰が下っていた。こうした追放制度は時が経つにつれ失われ、手続きを踏めば混血児も日本人として認められるようになったが、差別や偏見をなくすことは難しかった。
娼妓たちも、異国の相手の性処理を行うことには恐怖を感じ、外国人に身を売る女は「らしゃめん」と呼ばれて蔑まれた。そのため、混血児の流産や死産は異常なほど多く、そこに人為的なものが加わっていることはよく知られていたという。親の愛情を受け経済的にも恵まれた混血児にはきちんと社会に出る道が開かれていたが、一方で、差別や偏見にさらされ、自暴自棄に陥り道を踏み外した例が少なくなかったことは『横浜市史稿』に記されている。
こうした歴史は公的機関からみると消したい過去であるかもしれない。だが、彼ら、彼女たちが辿ってきた闇を私たちは忘れてはいけないだろう。すべての人が人間らしく平等に自由に生きられる社会を実現する道は困難かもしれないが、「作りたい」と願い、努力することはできる。そのためにも私たちは“陰の部分”を正しく知る必要がある。
文=古川諭香