二十歳の不遇の青年が一攫千金を夢見て時を駆ける! 絶対に泣けるダークファンタジー/『黄昏出張所』①
公開日:2019/6/19
もし、人生をリセットできるなら――。不遇の青年・遠野ハジメ。彼の目の前に現れたのは、歴史上の人物の意識を喰い、過去を変えてしまう「蟲」から歴史を守る「蟲番」だった。蟲番からの3つのミッションに成功し、ハジメは報酬をもらえるのか――? 感涙のラストが待つ、ダーク・ファンタジー!
prologue
カサ──カサカサッと、微かに音がした。
蟲番はお茶の入った湯飲み茶碗を置き、小さく溜息をつく。
しばらく静かだったのだが、また活動期に入ったのだろうか。真ん中にぽつんと置かれた机の抽斗から望遠鏡を取り出すと席を立った。
書類の片付けを終えたかったが、なにしろ膨大だ。蟲番としての仕事の合間にやるしかない。愛用の万年筆と算盤だけが頼りで、〈IT化〉などというのは永遠にありえない。ここはそういう職場だった。
望遠鏡を使う前にかけていた眼鏡を外す。滅多に崩れることのない七三の髪を少し後ろに撫でつけた。几帳面に黒い腕貫の左右の高さを揃える。
窓の向こうは黄昏。窓を開けると、色や時代が混ざり合い、奥へ奥へとねじ曲がった得体のしれない風景が広がっていく。
そんな彼方へ蟲番は望遠鏡を向けた。蟲に喰われた箇所を探し、焦点を合わせる。
「一つ、二つ……三つ」
気付いたときにはもうこれだけの被害が出てしまう。
早く修復しないとすべてが変わる。過去はドミノ倒しのように現代に押し寄せてくるのだ。
蟲番はネクタイをきゅっと締め直し、破損箇所の特定のために棚にずらりと並んだ黒表紙から一冊抜き出す。綴り紐でぎっしりと綴じられた書類は享禄から文禄までのものだった。
表向きの歴史が綴られているが、蟲番は行間を読む。そこにこそあらゆる角度からの真実があった。
蟲喰いの穴を見つけ、メモを取る。これはかなり大きな穴だ。早急な修復が必要になる。
「使える者がいればいいのですが……」
独り言は話すことを忘れないための対策でもあった。
ここには職員が一人。蟲番しかいない。修復作業員は臨時職員という形で雇うことになる。無存在である蟲番には実際の作業はできないのだ。
ほどよい絶望とほどよい悪さ、ほどよく強欲。
実際、現場に送り込んでみなければここまでのことはわからない。人とはもっとも読めない生き物なのだから。
机に戻り、黒い電話から受話器を取るとダイヤルゼロを一回回した。受話器を戻し、臨時職員の採用書類に番号を振った。すでに四百番を超えている。先代までの分はこの数に入っていない。多くの人間が過去の修復と自らの人生の再建に賭けた。
「応募がきましたか」
求職者を目指して、出張所自らが移動するのだから気が利いている。
孤独な職員を乗せ、黄昏の人材を求めて──
mission1 父の背中
遠野ハジメは本日をもって悪党見習いとなった。
自分にはそれだけの充分な理由があったような気がしたが、人が聞けばたいしたことはないのかもしれない。
「あ、ばあちゃん。オレオレ。久しぶり、元気してた?」
圭人は慣れた感じで顔も知らない老人に話しかけた。
足がつかないようにわざわざ公衆電話を使っていた。声でばれないよう、わざとらしく咳までしておく周到さ。
(これが詐欺師か……)
その片棒をかついでいるのかと思うとハジメは身震いした。
「いやあ、ちょっと風邪ひいてさ。声聞き取りにくいだろ、ごめんな」
電話越しとはいえ、声でばれないようにという小細工だった。中学の同級生だった圭人はいつの間にこんなことを覚えたのだろう。その話術は調子よく淀みない。
受話器に張り付くようにして聞いていたハジメも妙に感心する。これがめくるめくワルの世界なのだ。老人ならこれでも充分騙せるだろうと、ハジメは緊張しながら次の展開を待った。
『誰だい、あんた』
意外にもシビアな声が返ってきた。だが、そこは圭人も動じない。ちゃんと調べはついているのだ。東京に行った孫が一人いることもその名前も。闇雲に電話したわけではない。
「ヒロキだよお。やだな、ばあちゃん。オレのこと忘れちゃった?」
『いつから自分のことオレなんて言うようになったんだい』
うっ──これにはさすがの圭人も言葉を詰まらせた。
一人称が〈オレ〉じゃないということだろうか。そうか、〈ボク〉の可能性もあったか。
ひょっとして〈オラ〉とか〈ワタシ〉か。いくらなんでも〈ソレガシ〉や〈セッシャ〉はない筈だ。〈ワテ〉〈小生〉〈あっし〉に〈朕〉。日本語は驚くほど一人称が多いということを改めて思い出した。
(圭人はここをどう乗り切るんだろう)
ここで慌てては向こうの思う壺とばかりに、圭人は一度深呼吸した。
「そりゃ東京来てけっこうたつしさ、ちょっとは変わるよ。で、頼みがあるんだけどさ。オレ、自転車乗ってて停まってた外車にぶつけちゃって。弁償しなきゃならないんだけど、百万ほど貸してくれるかな、すげえ困ってるんだ。用意しないとヤクザに殺されて東京湾に捨てられちまう」
無理な金額はふっかけない。百万くらいならなんとかなるだろうというのが圭人の作戦だった。最後の方は上手い具合に情けない声が出ていたと思う。こんな憐れな〈孫〉を見放すなんて、善良なお婆さんにできるわけがないとハジメも確信した。
しかし、ハジメの願望はあっさり打ち砕かれることになる。
「死ねっ」
プツリと向こうから電話を切られた。そのあまりに冷たい声にハジメも頭の中が真っ白になる。
「はああああ?」
受話器を置いて、圭人は盛大に溜息を漏らした。悔しさのあまり、公衆電話の壁を蹴る。
「ちっくしょお、クソババア」
わめく圭人をハジメが慌てて止めた。
「ダメだって。人に見られてるよ。早く行こう。ほら念の為、受話器の指紋拭いておいて」
ここは公共の体育館だ。なかなか公衆電話が見つからず、こんなところに来てしまったのだが、当然のことながら利用者も職員もいる。
「だってよ、オレに死ねって言ったんだぞ。あのババア」
「いいから諦めなよ。そうか、最近はお年寄りだって用心深くなってきてるんだよな。ほら見られているから、早く」
ハジメは圭人を引っぱり、体育館をあとにした。詐欺は思い切り失敗したのだ。晴れ渡った青空がよけい惨めな気持ちにさせた。と、同時に未遂で終わったことに安堵もあった。
「死ねってなんだよ。言い過ぎだろ、いたいけな若者を傷つけるのかよ」
「オレたちがやろうとしたことは詐欺なんだから、何言われても仕方ないよ」
圭人にそうは言ったものの、ハジメもきつい言われ方に多少はショックを受けていた。ハジメの中では祖母は唯一無償の愛をくれる存在だったからだ。しかし、考えてみればこの場合は他人同士であり、こっちは加害者。
「よし、次いこう次。十回やって一つ当たったらラッキーってもんだ」
圭人もとりあえず前向き思考を取り戻したようだ。もっとも詐欺を続けるというのを前向きと言っていいのか疑問は残る。
「やっぱり簡単なことじゃないんだ。亀の甲より年の功だものな」
圭人に怪訝な顔で睨まれた。
「はあ、カメがどうしたって? まったくうちのばあさんみたいな性悪な年寄りだったな。でも、大丈夫だ、トロい年寄りなんていくらでもいる」
「圭人もお祖母さんいるのか」
「いるよ、ぴんぴんしてる。じいちゃんも、親父もお袋も姉貴も兄貴も」
「それでこんなことやってるのか」
圭人にも何かグレるだけの理由でもあるのかと思っていたハジメは大いに呆れてしまった。
「だって、パチンコで負けちゃってさ。大学の教材費使い込んじまったんだよ」
「え、大学生だったのか」
「言ってなかった? 私立の、まあたいした大学じゃないけどさ。それでも大卒の方がいいから出ておけって、親に言われてさ」
むらむらとハジメの中で怒りが込み上げてきた。
「そこまで親にしてもらって何してんだよ。詐欺は犯罪なんだぞ。金がないならバイトしろよ」
説教にむかついたのか、途端に圭人は機嫌が悪くなった。
「おまえ人のこと言えるわけ? 共犯者だってわかってる? 身寄りもないくせに、肝っ玉小せえったらねえよな。つまんね。ハジメってさ、やっぱり騙される側の人間だよな。やっと就職できたと思ったら半年持たずにリストラされて、だせえったらねえよ。二十歳なのにお先真っ暗じゃん」
罵詈雑言を浴びせられ、ハジメは言葉を失った。
「まったくよ、美加もなんでこんなのを……」
何故か女友達の名前が出てきた。どういうことだと問い返すより先に、とどめの言葉を刺される。
「こんな役にたたないと思わなかったわ。白けたから今日はやめておく。じゃあな」
去って行く圭人を呼び止めることはしなかった。向こうには帰る家があるのだ。
●中村 ふみ:
秋田県生まれ。2010年『裏閻魔』で第1回ゴールデン・エレファント賞大賞を受賞し、デビュー。他の著作に、『魔女か天女か』『冬青寺奇譚帖』『なぞとき紙芝居』『夜見師』『死神憑きの浮世堂』『天下四国』シリーズなどがある。