突然眼前に現れた古い建物と不思議な男、覚えのない面接を受けるが…絶対に泣けるダークファンタジー/『黄昏出張所』③
公開日:2019/6/21
もし、人生をリセットできるなら――。不遇の青年・遠野ハジメ。彼の目の前に現れたのは、歴史上の人物の意識を喰い、過去を変えてしまう「蟲」から歴史を守る「蟲番」だった。蟲番からの3つのミッションに成功し、ハジメは報酬をもらえるのか――? 感涙のラストが待つ、ダーク・ファンタジー!
「……村役場?」
そんな印象を受けた。しかし、今どきは村役場だって窓ぐらいサッシになっているだろう。ガタガタの木の枠にガラス、窓ガラス越しに暗くなった夕焼けの空が見える。天井には簡素な笠がついているだけの電球がぶらさがっていた。
「前に座ってください」
声の主はカウンターの向こうにいた。
絵に描いたような七三の髪型をしていて、上にだけ黒い縁があるクラシックな眼鏡をしていた。白いワイシャツに地味なネクタイ、サスペンダーに黒い腕貫。遥か昭和の公務員のような印象を受けた。それでもすらりとしていて、やぼったい雰囲気はない。
「聞こえませんでしたか」
「あ……いえ、はい」
よくわからないまま、ハジメは男の前の椅子に腰をかけた。
カウンターの内側には机が一つだけあった。木製で片側に抽斗が並ぶ古い机だった。学校の出席簿のようなものと鉛筆と万年筆。黒い電話があったが、パソコン一つない。奥の壁に大きな日めくり、棚の上に急須と湯飲み茶碗が見える。今どきこんな役所があるだろうか。
「あのう……ここは?」
公園のベンチに座っていたのだ。それはもう心底落ち込んで。
「時ノ庁の出張所です。仕事をお探しだったのではありませんか」
男は役人らしく淡々と話す。
「えっと、ハロワ?」
「時ノ庁です」
「県庁の庁?」
「その字です」
そんな省庁があったのか。聞いたことはないが、最近はニュースも見ていなかったから、知らぬ間にできていたのかもしれない。
「トキ?」
確か貴重な天然記念物の鳥だ。それを守るためについにお役所が増えたのか。
「いいえ、時間の時です」
そんなものが出来ていたのか。ハジメは無知を恥じた。それはさておき、いつ自分はここに移動したのだろうか。
「オレ、公園にいたと思うんですが」
「ここは黄昏に出張します。さて、このたびは蟲喰い被害による歴史破損を現地で修復する臨時職員の募集にご応募いただきましてありがとうございます」
日本語だったとは思うが、まったく意味がわからなかった。
「……黄昏に出張って?」
「あなたが知る必要のないことです。それより臨時職員になることを希望しますか、しませんか」
役人は微動だにせず畳みかけてくる。ベンチで眠ってしまって夢を見ているのかもしれない。
「すみやかにお答えください」
「なんとかの臨時職員?」
「蟲喰い被害による歴史破損を現地で修復する臨時職員です」
それは虫に食われた文化財を修復する仕事だろうか。
(なんか……渋くてカッコイイかも)
自分にできるとも思えないが、おそらく助手ということなのだろう。もちろん応募した覚えなどない。
「あ……はい、働けるなら」
今は幻にでも藁にでもすがりつきたいくらいだった。
「でも身寄りがないから身元保証人もいなくて」
「保証人は必要ありません。印鑑をお持ちですか」
「今は持ってません」
「それでは明日、この時間に印鑑持参でいらしてください。すぐに仕事に入っていただきます」
急なことに目を白黒させる。
「あのもう少し、お話を──」
「禍時となりました。続きは明日」
「禍時? え、でもまだ内容がわからなくて」
「黄昏に会いましょう」
ぴしゃりと言い切ると、役人は几帳面な仕草で書類をとんとんと音をたてて揃えた。眼鏡の奥の無感情な瞳は「本日は終了しました」とばかりにもうこちらを見ていない。古い時計の音がどこからか響く。
また軽く目眩がして、ハジメはうつむいて頭を押さえた。
はっとして顔を上げると、そこには出張所はなかった。黄昏から夜に移ろうとしている公園があるだけだった。
「……疲れてるのかな」
被害者ヅラできる立場じゃないことは重々承知で、今日は二本の電話だけでメンタルにきた。二人目のお婆さんにいたってはどれほどひどいことをしたことか。
それでも生きている限り食っていかなければならない。何故生まれてしまったのか、ハジメだってうんざりしている。
とりあえず一旦部屋に帰ることにした。そこには〈彼女〉がいる。けっこう美人でDカップの〈彼女〉が。
それだけ聞けばハジメも捨てたものではないように思われるかもしれないが、実態はそんなに甘くない。
「えっ、呑みに行く?」
帰ってみると、美加は頭にカーラーを巻いて入念に化粧をしていた。
「今日は休みだったろ」
一緒にラーメン屋にでも行こうかと思っていただけにハジメは落胆した。
「営業よ。太客がご馳走してくれるって。ランク上の店に移りたいって思ってるのよ。お客連れていけばいけそうなんだから」
美加は振り返りもせず、つけまつげを貼り付けながら言った。
「休みくらい休んでもさ」
「だってハジメといたってどうせラーメン屋どまりでしょ。美味しいもの食べたいじゃない。ねえ、それより家賃と生活費は折半だよね。早く払ってくれなきゃ一緒にいる意味ないわよ。あたし、ヒモ養えるほどまだ甲斐性ないからね」
確かにまだ今月の分を払っていない。美加の感覚はあくまで節約のためのルームシェアだった。中学のとき短い間恋人未満的な位置づけだったことはある。それが縁で二ヶ月前に同居することになったのだが、美加の取り立ては無職にも厳しい。
「ごめん、なるべく早く払う」
祖母が死に、失業すると、家賃が払えなくなって退去せざるを得なかった。仕事も保証人もない今のハジメでは部屋も借りられない。住所不定になれば就職はさらに不可能になる。ここに住まわせてもらっているのは最後の生命線だった。
「ねえ、圭人なんかとつるまない方がいいわよ。あいつ、ろくでもないからいつか捕まるよ。ハジメ、けっこう頭いいんだからちゃんと職探しなよ」
美加の中ではパソコンのトラブルが解決できるイコール頭が良いなのだ。ハジメを同居人に選んだのもそこが大きかったと言っていた。ハジメは二年通った専門学校で情報処理を学んだ。本当は大学に行きたかったが、働きづめの祖母には無理だった。それでも結局無理させて死なせてしまったのかもしれない。
「この間面接したとこ、内定のあとで二十歳のキャバ嬢じゃ身元保証人にならないって言われたんだっけ。あったまくる」
「悪かった。せっかく……」
思えばもし警察に捕まればこの部屋も捜索されるだろうし、美加も疑われる。自分にも迷惑をかける人はいるのだ。
「あたしはそこの無礼なヘッポコ会社に怒ってるのよ。で、次の面接の予定は?」
「えっと、今日してきたのかな……明日もう一回」
事務的公務員の事務的な能面顔を思い出す。愛想の欠片もなかったが、意外に整った顔立ちだったかもしれない。
「なにそれ?」
「なんか歴史的文化財を修復する臨時職員らしいんだけど。臨時でもとりあえずはいいのかな」
「へえ、面白そう。いいじゃん、お役所の仕事なら安心だよ、きっと。ブラックってことはないんじゃない?」
美加に言われ、その気になってきた。しかし、公園のベンチに座っていたら突然村役場のような所にいたなどと言っても信じないだろう。病院に行けと言われそうなので、そこのところは割愛しておく。
「お互い親には苦労してきたから、ハジメにだって負けてほしくないのよね。あたしは二十代で自分の店を持つつもりよ」
そうだった。性格もタイプも違う美加と親密になったのはそういう共通点があったからだ。恋愛に発展しなかったのは彼女が傷の舐め合いを嫌ったせい。たぶん、ハジメは美加が好きだった。
「じゃ、お客を仕留めてくるわ」
カーラーを外し、前髪をセットすると美加は立ち上がった。戦闘準備が整ったらしい。美加の化粧技術はたいしたものだと思う。
「ああ、いってらっしゃい」
機嫌良く出て行った美加を見送り、ハジメは携帯を取り出した。美加に家賃などを払わなければならない。日雇いの斡旋をしてくれる知人に電話をして、今夜の道路工事にありついた。学生だったとき、そこでアルバイトをしてなんとか乗り切った。提出物や試験も多かった専門学校で、シフトを決められるようなバイトでは難しかったからだ。その分、体力的にはかなりきつかった。
(美加はすごいよな)
本当にそう思う。ちゃんと夢に向かっている。
それに比べて自分はどうだろう。何が前なのかもわからない。ついには犯罪に手を染めようとして、見ず知らずのおばあさんを傷つけた。
朝までくたくたになるまで働いて、泥のように眠りたかった。疲れ果てて布団に潜り込めば、ほんのちょっとはぬくぬく幸せになれる。今はそれだけを求めてみようと思った。
工事の現場は嫌いじゃない。何かを作ることに参加できるのはちょっと嬉しかった。直った道路を見るたび、ここオレが直したんだぜって図々しく思ったりもした。ほんのわずかでも形として自分の足跡を残せることに喜びがあったのだ。
部屋を出て夜の町に戻る。駅に向かう会社帰りのサラリーマンたちの群れを掻き分けすすむ。自分もこんなふうに普通に生きたかった。
せっかく就職したのにそれすらできなかった。
ただただ普通の人でいたかった。父親のような生き方だけはしたくなかった。あんな……
(思い出したくもない)
父と呼びたくもなかった。ハジメの中では〈アイツ〉か〈アレ〉だ。
仕事先に向かうとき、さきほどの公園の前を通り過ぎる。歩道からも黄昏時に座ったベンチがうっすら見えるが、夜の公園には誰もいない。
(あの人なんだったんだろうな)
幻覚を見たにしてはリアリティがあった。節の目立つ床の木目まで覚えている。立ち上がっただけで軋んだ。
職員も透けて見えたわけでもなく、恨めしそうでもなかった。整然と会話した。今どきあんな事務的な公務員も逆に珍しいかもしれない。
幽霊とも思えなかったが、彼は夜とともに消えていった。
夢じゃないと思いたい。
ハジメは夜の街を駆け出した。現実からは逃げても逃げても逃げ切れない。誰も追いかけてもきてくれないのに何から逃げているのだろうか。
●中村 ふみ:
秋田県生まれ。2010年『裏閻魔』で第1回ゴールデン・エレファント賞大賞を受賞し、デビュー。他の著作に、『魔女か天女か』『冬青寺奇譚帖』『なぞとき紙芝居』『夜見師』『死神憑きの浮世堂』『天下四国』シリーズなどがある。