幼い頃のネグレクトの記憶に涙…そして黄昏どきの面接へ向かうが…絶対に泣けるダークファンタジー/『黄昏出張所』④
公開日:2019/6/22
もし、人生をリセットできるなら――。不遇の青年・遠野ハジメ。彼の目の前に現れたのは、歴史上の人物の意識を喰い、過去を変えてしまう「蟲」から歴史を守る「蟲番」だった。蟲番からの3つのミッションに成功し、ハジメは報酬をもらえるのか――? 感涙のラストが待つ、ダーク・ファンタジー!
工事現場はよかった。
ぼやぼやするなと怒鳴られることはあるが、たいていはその場限りだ。叱責や嫌みがいつまでも続くようなことはない。
たまには褒められることも礼を言われることもある。缶コーヒーなんか奢ってもらったりもする。ここのおっちゃんたちの方が死んだ父よりずっと優しかった。
「遠野、仕事が丁寧になったな。明日も来ないか」
現場監督からそんな声もかけてもらった。
「お願いします」
この監督に当たったときはラッキーだ。日雇いの作業員にも公平に接してくれる。
頼んだら正式に雇ってくれるかもしれない。だが、どこかでハジメにも躊躇いがあった。なんのために高い授業料を出して二年も情報処理を勉強したのかという気持ちがある。ハジメにもやってみたい仕事はあった。犯罪にまで走ろうとしたくせに、こんなになってもまだ希望がある。
「もたもたすんなよ、邪魔だろうが」
怒鳴り声が聞こえてきて一瞬びくりとしたが、ハジメへのものではなかった。山田のおっちゃんと呼ばれる小太りの年配作業員への叱責だ。持病があるらしく、キビキビとは動けないらしい。辛そうにしょっちゅう手を休めてしまう。
(こんなきつい仕事しなきゃいいのに)
ハジメには気遣ってやれる余裕はなかった。ここで日当で働いている者は多かれ少なかれワケありなのだ。
(……オレだって疲れてるよ)
そう自分に言い訳する。
言い訳が必要な程度にはハジメにも助けてやれない罪悪感があった。だいたい、オレオレ詐欺までした悪党が今更いい人ぶっても仕方がない。
辛そうな山田を見て見ぬふりをして、ハジメは仕事を続けた。秋の夜は冷えるが、動いていればどうってことはない。
夜明け近くまでたっぷり働き、日当を貰うとハジメは家路についた。
夜が朝に変わろうとしている。黄昏とは違うかもしれないが、これもまた狭間の時間だ。
ハジメは公園の車止めの前で止まった。
「……え?」
朝が夜を駆逐する風景の中に一人の男が立っていた。昨日の黄昏に出会ったあの男だ。出席簿みたいな黒表紙の中をめくり、考え込んでいるようにも見えた。手にしているのは赤鉛筆だ。彼がさっと引いた下線が、モノクロに近い眺めの中で驚くほど鮮烈な赤を放つ。
(仕事をしてる……?)
彼はこちらに気付いていないように見えた。あのときはそっけなく見えた横顔が儚げに揺れていた。
「……いったい」
ハジメはふらふらと近づいたが、東の空から強くなる朝の陽が幻をさらに薄くしていく。目の前から男は完全に消えていた。
明るくなった街を新聞配達の自転車が通り過ぎる。ジャージ姿のランナーも現れた。新しい一日が始まろうとしていた。そこには幻想的なものなどなにもなく、空気が汚れる前の健康的な街の風景があるだけだった。
(……やばいかも)
本格的に病んでいるのではないかと思った。
どこか病んでいるとしても医者に行く余裕はない。人を騙そうとしておいて精神を病む権利などあるものか。部屋帰って、何か食べて、シャワー浴びて、歯磨いて、何も考えず寝ればいい。目覚めれば、憐れな若造の現実だけがある筈だ。
食べ物の他、美加に何か甘い物でも買っていこうとハジメはコンビニに入った。今のハジメにとっての別世界などせいぜいこの中くらいだ。
お腹がすいた。
いつもそうだった。やせっぽちで成長の遅い子供だった。
外に出てお腹がすいたといえば誰か助けてくれるだろうか。でも足が痛くて外に出られない。さっき冷蔵庫の上の箱を取ろうとして椅子に乗って落ちた。すごく痛かった。箱の中に何か食べ物があるかと思ったけど空っぽだった。
一一〇番に電話をすれば助けてくれるらしい。でも、そんなことをしたらお父さんが捕まってしまう。
お父さんが酔っ払って泣きながらそう言っていた。
どうすればいいだろう。お父さんはたまにしか帰ってこない。三日前に出て行く背中を見送ったのが最後になった。かじっていた生のお米ももうない。
六畳一間のアパートの中で、七歳のハジメは動けなくなっていた。本当はもう学校に行っている年齢だが、ハジメは自分の歳も知らなかった。幼稚園にも行ったことがなかった。
このまま死んじゃうんだなと思った。
もうそれでもいいかと思っていた。死ねばお母さんに会えるらしい。
(……ハッちゃん)
お母さんはそう読んでくれるだろうか。
赤ん坊のハジメのことをそう呼んでいたらしい。もちろん、全然覚えていないけど早く会いたかった。
ハジメは目を閉じた。その時、玄関が開いた。何人か人が入ってきた。駆け寄ってハジメに話しかける。
『良かった、生きてる。左脚骨折の疑い、救急車っ』
自分を取り囲む大人たちの顔をぼんやり眺めて、お母さんが助けてくれたのかなあと思った。
(やべ……)
悲しくて目が覚めて、頬が濡れていることに気付いた。
「……情けない」
莫迦じゃないのか、成人した男が。
ハジメはすぐに布団から起き上がり、流しに向かった。顔を洗って、なかったことにしたかった。
「たっだいま」
玄関が開いて、美加が入って来た。真新しい服を着て、上機嫌で両手に百貨店の紙袋を持っていた。
「そっか、あれから帰ってなかったのか」
もう夕方だった。午前様どころではない。
「うん。お泊まりして、ワンピと靴買ってもらったの。いいお得意様になってくれそう」
つまり上客とそういう関係になったということだ。それを同居している男に平然と言えるのだから、美加にとってはハジメなんて眼中にもないのだろう。
「そっか、よかったな」
「なによ、妬かないの?」
「ただの同居人だろ。今夜また現場行ってくるから、そしたらちゃんと家賃も渡すから待ってくれよな」
2Kの部屋を家賃折半。光熱費も折半。たぶん、シャワー流しっぱなしでドライヤーガンガンの美加の方が多く使っているだろう。
「あれ、面接するんじゃなかったの」
「それもこれから」
「役所が、こんな時間から?」
黄昏しか開かない役場らしいからとは言わなかった。正直、この面接の話をしたことを少し後悔していた。美加は幽霊もUFOも宗教も男も一切信じない現実主義者だ。美加が信じるものは現金だけだった。
「向こうの都合で」
「ふうん。まあ、遅れた分、家賃には利子つけないでおくわ。じゃ、お風呂入って仕事の準備しなきゃ。今夜も稼ぐぞお」
ミカは紙袋を部屋に置き、脱いだストッキングをベッドに放り投げた。
「冷蔵庫にプリンあるから食べていいよ」
「いらない。ディナーとランチが豪華だったもの。ちょっとカロリーオーバー」
美加はたっぷりご馳走になってきたようだ。彼女も家庭に恵まれなかったが、ハジメの知らない華やかな世界を知っている。そこから更なる高みを目指している。
(妬かないわけがない)
美加に大盤振る舞いができる太っ腹なおっさんに。
「じゃ、こっちで食っておくわ」
「うん。あ、これ買っておいて。日用品の買い物リストね」
メモにはティッシュにトイレットペーパー、台所用洗剤などが並んでいた。最後に憎たらしい目つきの猫の絵が描かれている。美加はいつも最後にこの絵をつける。ハチワレと呼ばれる顔の上が黒く漢数字の八のように広がっている猫だ。お世辞にも上手い絵ではない。
「昔からよくこの猫の絵を描くよね」
「死んだお母ちゃんがあたしに描いてくれたんだよね。お母ちゃんが昔飼ってた猫なんだって。あ、実の母の方ね。それくらいしか覚えてないけど」
「ふうん」
美加とは生い立ちが似ている。
「お風呂入っている間に出るなら鍵かけておいてね」
洗面所に入った美加を見送り、ハジメは吐息を漏らした。
「そうだ、ハンコ」
役所の人にそう言われていたのを思い出し、〈遠野〉と彫られた印鑑をポケットに入れた。
ぎゅっとスニーカーの紐を結ぶとドアを開けた。
「行ってくる」
もう聞こえないだろうけど、声をかけて外に出た。
孫のいる独居老人リストはまだ残っているが、もうあんなことをする気はない。どうかしていたのだ。死んだ祖母に顔向けできない。
●中村 ふみ:
秋田県生まれ。2010年『裏閻魔』で第1回ゴールデン・エレファント賞大賞を受賞し、デビュー。他の著作に、『魔女か天女か』『冬青寺奇譚帖』『なぞとき紙芝居』『夜見師』『死神憑きの浮世堂』『天下四国』シリーズなどがある。