歴史上の重要人物のために切腹? 絶対に泣けるダークファンタジー/『黄昏出張所』⑦

文芸・カルチャー

公開日:2019/6/25

もし、人生をリセットできるなら――。不遇の青年・遠野ハジメ。彼の目の前に現れたのは、歴史上の人物の意識を喰い、過去を変えてしまう「蟲」から歴史を守る「蟲番」だった。蟲番からの3つのミッションに成功し、ハジメは報酬をもらえるのか――? 感涙のラストが待つ、ダーク・ファンタジー!

『黄昏出張所』(中村ふみ/KADOKAWA)

 灯りも持っていかれてしまったので、手探りで水を飲み、椀の中の粥を流し込んだ。空腹だったからか充分美味く感じた。

 格子の前に食器を置き、ハジメは這いつくばって奥の筵に戻った。土を固めただけの床よりは筵でもあった方がいい。両脇は板だが、奥だけは土壁のようだ。

 いったい何をされたのか、本当に体中が痛む。

 座ったまま膝の上に顔を乗せ、頭を抱え込んだ。そのとき初めて自分の頭が丁髷になっていることに気付く。その独特の手触りに絶望感が増した。

「……出られるのかな、オレ」

「ご心配なく。出られますよ」

 蟲番の声がして、ハジメは思い切りよく顔を上げた。いつの間に入って来たのか、確かに牢の中にあの男がいた。

「どういうことだよ、これ」

「臨時職員の業務です」

「タイムスリップするなんて聞いてない」

「黄昏時は短く、詳しい説明は難しいのです」

「ちょっと待て。そこは言わなきゃいけないだろ」

「詐欺を働こうとしていたくらいですから、細かいことは気にしないかと」

 うっ、と言葉に詰まる。

「なんでそんなことまで知ってるんだよ」

「臨時職員の身元調査は必ずします。遠野ハジメさんですね」

 オレオレ詐欺は昨日のことだ。身元調査の範囲を超えているような気がする。

「あれは気の迷いで……すごく反省してる」

「私は警官ではありませんからあなたが何をしてもかまいません。詐欺師に向いているようには思えませんが」

 はい、そのとおりでございますと頭を垂れた。

「今も黄昏時で急いでるのか」

 まずはゆっくり話が聞きたかった。

「いえ、亥の刻くらいですね。夜の九時過ぎから十一時あたりでしょうか」

 蟲番は片膝をつき、目線を合わせてきた。

「その時間もいけるんだ」

「過去ですから。全時間対応です」

 よくわからない出現の理屈だが、存在自体が謎なのだからこれもありなのだろう。とりあえずそこは納得しておく。

「時ノ庁って日本の省庁なんじゃ……」

「時の蟲から歴史を守る機関です」

「超時空公務員?」

 急にそんなSFみたいなことを言われても頭がついていかない。

「そうとも言えますが、役職はただの蟲番です」

「……名前は?」

「ありません。蟲番と呼んでください」

「なんでもいいからオレを戻してくれよっ」

 つい、声を荒らげてしまった。

「あまり大きい声を出すとまた気が触れたと思われます。静かに話しましょう」

「……すみません、お願いですからオレを元の世界に戻してください」

 もう泣きが入る。とうていついていけない。

「このとおりすでに契約済みですので、この件だけでも解決していただかないと元には戻れません」

 蟲番はペラッと紙を出してきた。そこには確かにハジメが持ってきた印鑑が押されていた。

「ハンコ押してない」

「業務開始と同時に契約書が作られます。働きたいとおっしゃった筈です」

「公的機関がそんなあくどいことしていいのかよ」

「どの国の法律にも縛られていません。次元が違うと理解できませんか」

 蟲番は機械のように答えるが、惨めな現実に喘ぐ小市民に別次元とか言われても困るだけだ。

「無理だって……帰してくれよ」

 見苦しく涙を拭うふりをした。

「仕事が終われば帰れます。三件こなしていただかないと報酬を差し上げることはできませんが、厭ならこの一件で手を引いてもかまいません」

 泣き落としが通じる相手ではないようだ。

「今、オレは誰なんだ?」

「三倉荘八という、さる土豪の重臣です。満年齢なら三五歳、妻と三人の子供がいます。なかなかの好人物です」

 まずドゴウという言葉を頭の中で漢字に直してみた。

「土豪って豪族?」

「そこの領主に逆らい牢に入れられているところです。随分殴られたりしましたので、体が痛むでしょう」

 ハジメはなんとか落ち着こうとしていた。とりあえずこれ一つを終わらせれば戻ることができるというなら、状況を受け入れるしかない。

「オレがこの人の中に入っている意味はなんですか。この人の中身は?」

 話し方を丁寧に戻した。蟲番という名の神を怒らせてもいいことは何もない。

「彼の心は蟲に喰われてしまったのです。心を持たないと人は弱った体を維持できません。この時代には生命維持装置もありませんので」

「時の蟲?」

 蟲番はこっくり肯く。

「これが厄介で、歴史を変えてしまいます。退治する術はありませんから、喰われたところを修復しなければなりません」

「……その話についていけないんですけど」

「理解できた頃にはこの役を終えているでしょう」

「オレにこの人を演じろってことですか?」

 芝居などしたことがない。そんな器用ならオレオレ詐欺も成功させていたのかもしれない。

「大根役者でも大丈夫ですよ、本人ですから」

「この人、歴史の重要人物?」

 聞いたことのない名前だった。

「正確には彼の息子がです。三倉荘八の息子は後に他家に養子に入り、後世を築く影の重要人物となります。そのためには父親の死に様が変わってしまっては困るのです」

 今、物凄く気になることを聞いた。

「……死に様?」

 おそるおそる訊ねる。これだけは聞き捨てならない。

「はい。三倉荘八は今から約六一時間後に切腹することになります」

 あっさり言われたが、すぐには事態が飲み込めない。

「切腹って……オレが腹を切るんですか?」

「そういうことになります」

 蟲番は眉一つ動かさず言ってのけた。暗闇の中でも彼の姿だけは不思議とよくわかる。淡い蛍のようだった。

「どうして?」

「もちろん本来は三倉荘八が見事に自分で切腹して果てたのです。しかし蟲というのは過去を自由に行き来して影響を及ぼします。彼は心身共に弱っていました。そこを蟲に喰われ意識をなくしました。このままでは切腹の日まで持ちません。彼にはきちんと切腹して、誇り高い壮絶な死に様を九つの息子に見せてもらわなければならない。息子はそのことを強く胸に刻み、歴史のファクターへとのし上がっていく。間違ってもひっそり獄死などされては困るということ」

 つらつらと出てきた説明にハジメはあっけにとられた。

「いやいや……死ぬに変わりはないでしょ」

「歴史的にはまったく違います」

 大事なのはそこだけということらしい。

「もしかしてここから出られるって言ったのは、外で切腹するからってことか」

「はい」

 怒髪天を衝くとはこのことか。体中の血液が沸騰して頭から噴火しそうになった。

「ふざけんなっ」

 ハジメは思わず痛む体で飛びかかったが、蟲番の体をすり抜けて前のめりに倒れただけだった。

 蟲番は唇の前で人差し指を立てた。

「静かに。私はあなたにしか見えませんが、人が来ると会話がしづらくなります」

「……体がないのか」

「私は存在していません」

「ろくでもないことしてるじゃないか」

「蟲の動きを監視して、あなたのような人を修復に使う──おや、うるさくしすぎたようですね」

 格子の向こうから足音が近づいてきた。どうやら叫んでいるのがまた牢番に聞こえたらしい。

「三倉様、どうかお静かに」

 駆けつけた牢番が困った顔で注意した。

「向こうの牢の囚人たちがうるさいと騒ぎ始めました。勘弁してください」

 元重臣ということである程度丁重には扱ってくれるが、それも死刑囚への憐れみみたいなものなのだろう。

(やっぱり、蟲番に気付いてない)

 淡い光を放つ謎の公務員はまるで存在していないかのようだ。

 失礼します、と蟲番の口が動いたように見えた。軽く頭を下げると、そのまま光は弱まり、消えてなくなった。

「ちょっ」

 何もないところを見て叫ぶ〈三倉様〉の姿に牢番は眉をひそめたようだった。

「三倉様を尊敬する者も多いのです。最期まで武士としてすごされませ」

 食べ終わった食器を持って牢番は去っていった。

 どうやら騒ぐと三倉荘八の風評被害につながるらしい。さすがにそれは申し訳ない気がしたのでハジメは押し黙った。

 蟲番は戻ってこない。一人になると恐ろしくなってきた。

「……あのお、蟲番さん」

 小さな声で呼びかけてみたが、あるのは押し迫ってくるような静寂だけだった。

「怒鳴らないから出て来てください」

 これはかなりの譲歩だ。なにしろこちらは死刑宣告されているのだから。

 返事はなく、ハジメは途方に暮れた。

「切腹とか絶対無理なんで、助けてください」

 そりゃ絶望してたよ。どうなってもいいと思ったよ。でも、いくらなんでもこれはあんまりだろ。

 胸の内で呼べど叫べど蟲番は出てきてくれなかった。

(オレ、やっぱり騙される側の人間なんだな)

 蟲番は死んでくれる奴がほしくてこんなことをするのか。考えてみればまるっきり詐欺師の手口じゃないか。弱っている人間につけ込む。

 切腹って痛いんだろうな。

 何度も死にたいと思ったことはあるけれど、いざとなればやはり怖かった。

(絶対痛いよな……腹刺して横に切るんだっけ)

 ちょびっと刺して、痛い痛いって転げ回りそうだ。でもそんなことをしたらこの〈三倉様〉に恥をかかせることになるのだろう。

 そんな無様な死に方を見た息子は予定通りに動いてくれるのか。

「人選ミスですよお、蟲番さん」

 凜々しく切腹なんかできる男じゃないっての。自虐の塊みたいなみっともない奴なんだよ。挙げ句に年寄りまで騙そうとする真性クズなんだよ。

「……寝る」

 弱っている体が睡眠を求めているように思えた。気を失ったようにハジメは深い眠りに落ちていった。

続きは本書でお楽しみください

著者プロフィール
●中村 ふみ:
秋田県生まれ。2010年『裏閻魔』で第1回ゴールデン・エレファント賞大賞を受賞し、デビュー。他の著作に、『魔女か天女か』『冬青寺奇譚帖』『なぞとき紙芝居』『夜見師』『死神憑きの浮世堂』『天下四国』シリーズなどがある。