コステロを日本に呼び、ピチカートの世界デビューにも関わったプロモーターが自らの半生を語る
公開日:2019/6/29
1963年の大学在学中にマイク眞木さんらとMFQ(モダン・フォーク・カルテット)を結成し、カレッジフォークを代表するバンドとして活躍。70年代からは海外からアーティストを招聘するプロモーターとして活動し、トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロ、トーキング・ヘッズらを日本に呼んだ。80年代には、後にフジロックフェスティバルを開催する会社・スマッシュの創設にも携わり、90~00年代にはピチカート・ファイヴのマネジメントにも尽力。現在は世界最大規模の音楽フェス・SXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)の日本事務局代表……。
このように日本のポピュラー音楽史に深く関わり、海外のアーティストとの架け橋になってきた麻田浩さんが、自伝的な著書『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』(麻田浩、奥和宏/リットーミュージック)を今年発表。その発売記念トークイベントが埼玉県狭山市のカフェ・PITで開催された。ここでそのトークショーの様子をレポートする。
■MFQのライブの客席には加藤和彦や谷村新司の姿も
聞き手を務めたのは、麻田さんの活動を中学生の頃から追いかけてきたハスキー中川さん(東京・経堂のレコード店・ハスキーレコード店主)。トークは麻田さんの生い立ちの話からはじまった。
麻田さんは横浜でFEN(米軍放送)を聞いて育ち、中学の終わり頃からレコードを買い漁るようになったそう。トークの中では、麻田さんと中川さんが通っていた銀座の「ハンター」、新宿の「オザワレコード」、渋谷の「ミヤコ」といった中古レコード店や、軍放出品も売っていた渋谷の「さかえや」、銀座の洋書店「イエナ書店」など、今はなくなった店の名前が次々と飛び出した。
麻田 その頃は雑誌だと、『Sing Out!』を読んでいてね。最初に買ったのが1961年の3月号。今日は1962年のボブ・ディランが表紙になった号を持ってきました。
中川 『Sing Out!』はイエナに4冊しか入らなかったんですよ。それを麻田さんが買って、中村とうようさんや島田耕さん(ともに音楽評論家)が買って……と、すぐになくなる。僕が行く頃には「もう売ってないよ」と言われるんです(笑)。レコード屋さんも、麻田さんが行った後は「あれもない!これもない!」という感じで、僕の欲しいものは抜かれていました。
麻田 そうやってレコードばかり買う生活をしていたから、僕は中学から大学まで一貫の学校に通っていたのに、大学に内部進学できなかった(笑)。高2の謝恩会の出し物で、はじめて吉田と重見(吉田勝宣さんと重見康一さん。後にマイク眞木さんも加わり4人でMFQを結成)とバンドを組んで、「大学でまた一緒にやろう」と言っていたのに、僕だけ入れなくて、外から受験しました。
中川 マイク眞木も青学の高等部でラグビーをやっていて、大学に落ちてね。それで日大の芸術学部に入って、描きたくもない絵を描いていたんです(笑)。その麻田さんと眞木さんがフロントにいたMFQはスゴかったよ。都市センターホール(千代田区平河町の旧日本都市センター会館内にあったホール)でコンサートをやると、その頃は高校生の加藤和彦といった連中が、ひょこっと来ていたりするんだよね。
麻田 加藤はあの頃東京に住んでいたからね。当時は有楽町のニッポン放送の上に東京ヴィデオ・ホールという会場があって、そこでは月イチでカントリー&ウエスタンのコンサートが開催されていた。僕は「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」を見に行っていました。すごく面白いバンドでね。ジミーさんの歌は本格的ですごく上手いんだけど、ベースがいかりや長介さんで、ギターが……。
中川 寺内タケシ。
麻田 それからマンドリンがジャイアント吉田。あとスティールが…。
中川 松平直久ね。
麻田 そうそう。いかりやさんが司会をするんですけど、ものすごく面白くて。僕はそうやって、音楽を聞かせつつも笑いがあるようなバンドをやりたかったんです。
中川 もともとアメリカに、ウイットに富んだライブをやるバンドがいたんですよね。麻田さんのMFQは、それを日本でいち早く取り入れたバンドの一つ。ジョークを交えながら、みんながやらない曲をやっていて、すごく感動しました。
■トム・ウェイツやコステロを麻田さんが日本に招聘できた背景
麻田さんは1965年にMFQで2ヶ月間の全米ツアーも経験。3年間有効の数次ビザを取得したことをきっかけに、1967年に再渡米した。西海岸でフラワー・ムーブメントを体験し、シカゴでブルースを聞き、NYではボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクルのコンサートを生で鑑賞。マイク・シーガーなどのミュージシャンとも親交を深めた。
そして帰国後は、黒澤明監督の映画の助監督をしたり、俳優をしたりと様々な仕事をしていた中で、大手プロモーターの呼んだ外国アーティストのライブの司会の仕事もはじめる。大手プロモーターのキョードー東京が手がけたブラザーズ・フォーやバック・オーエンスなどのツアーに関わっていたそうだ。
麻田 その頃は、僕のほかにもここらへん(麻田さんが現在も住む埼玉県狭山市~入間市周辺。米軍の建てた住居が今も残る)にミュージシャンがたくさん住んでいたんです。細野晴臣も小坂忠もいたし、洪栄龍も徳武弘文も、ムーンライダーズの岡田徹も、あと吉田美奈子もいましたね。みんなヒマだったから、ウチとか忠の家でレコードを聞く。ジェームス・テイラーが出てきた頃で、聞くのは大体シンガー・ソングライターでした。それでキョードーの人に、「こういう音楽が僕らの中で流行ってるんで、日本に呼びませんか?」と提案したんですよ。その頃キョードーがやるポール・モーリアなんかは、オーケストラで何十人と来るけど、シンガー・ソングライターは1人とか2人で大丈夫だし。そしたら「そんなもの客が入るわけがない」と言われて、「なら自分でやるしかないか」と思ったの。
中川 麻田さんは「日本で聞きたいものが聞けない。じゃあ呼ぼう。みんなに聞かせよう」と動いた最初の男だったと思います。「自分の聞きたいものはあいつも聞きたいだろう」という信念があったと思うね。
麻田 それが大間違いなんだよね。僕の会社のトムス・キャビンは実際に潰れたから(笑)。話を戻すと、トムス・キャビンも最初はエリック・アンダーソンとかトム・ウェイツとか、シンガー・ソングライターを呼んでいたんだけど、長いこと聞いているとまた何か違うもの、新しくて刺激のあるものが欲しくなっちゃう。それで次にサザンソウルのミュージシャンを呼ぶようになって、その後はグレアム・パーカーとかエルヴィス・コステロとか、イギリスのニュー・ウェイヴの人なんかも呼びはじめた。それは上手くいったんですよ。なぜかというと、「エルヴィス・コステロのバンドは福岡のホテルで大暴れして血だらけになった」とか、「グレアム・パーカーはローディーが中野サンプラザの人を殴った」とか、そういう噂が広まったから。それで大手の呼び屋さんは手を出さなかったんです(笑)。
■逮捕を覚悟しつつ決行したコステロの銀座ゲリラライブ
なお1978年にエルヴィス・コステロを招聘した際は、銀座の町中でゲリラライブを実施。その舞台裏は『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』でも詳しく描かれているが、トークショーでも話題に上った。
麻田 コステロにチケットの売れ行きを聞かれて、「そんなによくない」と伝えたら、「じゃあ俺たちが街で演奏してプロモーションするから、用意をしてくれ」と言われたんだよ。それでフラットなトラックに簡単なPAと楽器を積んでね。「東京で一番のメインストリートはどこ?」「銀座かな」「じゃあそこに行くよ」という話になりました。
中川 僕も「銀座四丁目の交差点でトラックで演奏するから手伝って」って急に言われたんだよね。それでアンプとシールドをつないで乗っけたら、「そこのトラック停まりなさい!」って捕まっちゃった。
麻田 僕は絶対に捕まると思っていたから、現場にサンケイスポーツのライターの方と、カメラマンの桑本(正士)君に待機してもらっていて、「捕まったら撮影して明日の記事にしてください」と頼んでいた(笑)。それにお前も乗ってたんだっけ?
中川 そうそう。何年か前に亡くなられた渡邉の憲ちゃん(渡邉憲一さん)と僕と、あと何人か乗っていましたね。「前科にはならないかもしれないけど」と言われつつ、全員が調書を取られましたよ。
その後、トムス・キャビンは先の話にもあったように倒産。麻田さんはゴダイゴのマネジメントをしていたジョニー野村さんのもとで働いたのち、同僚だった日高正博さんと共に会社から離れ、スマッシュを創設(現在のフジロックの運営会社)。そのスマッシュからも2年ほどで独立し、自分でアーティストの楽曲の権利を持ちながらマネジメントを行う仕事をはじめる。
■ピチカート・ファイヴの全米デビューにも尽力
麻田 そのビジネスで最初に関わったのがシンガー・ソングライターのSIONで、10枚くらいの作品のプロデュースをしました。それで新しい事務所も立ち上げたんだけど、事務所として借りる部屋もなくてさ。仕方ないから細野(晴臣)君のところに居候させてもらって、代わりに細野君の事務所にいた越美晴ちゃんのマネージャーもやっていました。
中川 麻田さんはピチカート・ファイヴもやったでしょ?
麻田 そうそう。その頃ピチカートが細野君の事務所にいたんだけど、まだ全然売れなくてね。僕は音楽的にすごくいいなと思っていたし、細野君からも「麻田さん何とかして売ってよ」と頼まれて。でもピチカートが長門(芳郎)君と独立することになったから、僕らは最初はそれを後押しして。3枚目はボーカルも田島貴男に代わったんだけど、それでもダメでしたね。そこで長門君が手を引いたので、僕が引き取ったんです。でもピチカートの音源は、当時も外人からすごく「いいね」って言われてたんだよ。
そして麻田さんは、アメリカの新人アーティストが多く出演する「ニューミュージックセミナー」という音楽のコンベンションに、ピチカート・ファイヴを出演させる。
麻田 2年目にマタドール・レコードという、当時中堅のオシャレなレーベルが契約してくれた。それでレコードを出したら世界で20万枚ぐらい売れたの。それを日本にフィードバックして、日本でも売れたんだよね。ただ、ピチカートは本当にお金がかかった。あまりお金かかったから、僕もやめたんだけど(笑)。
その後はSXSWから「日本のショーケースをやってほしい」と頼まれ、日本からロリータ18号やPUGSを送り出し、海外レコード会社との契約も成功させた麻田さん。
麻田 その後もSXSWには25年近く関わっていますね。こういった僕の活動の大体のことが『聴かずに死ねるか!』には書いてあります。
■60~70年代に音楽家が集った狭山でもう一度フェスを開催したい
この日は発売記念イベントにもかかわらず、肝心の本を持ってきておらず、「それがまたスゴいでしょう? この商売っ気のなさ!」と中川さんにツッコまれていた麻田さん。最後には、自身が今も住む狭山市で、2005年と2006年に開催した「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」の再開への思いも口にしていた。
麻田 本当にここ(ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルの会場となった狭山稲荷山公園)はすごくいい公園で。ただ、この1年で100本ぐらい大きな木が倒れていて、放っておくと大変なことになりそうなんです。そんな時期に、この「PIT」という店をやっている若い子たちから「またここでフェスをやりたい」という話を聞いたんです。「僕なんかはもう年だけど、じゃあ応援しますよ」ということで今回のイベントも開催しましたし、僕もまたここでフェスができればいいなと思っています。
文・写真=古澤誠一郎