読めば誰かに教えたくなる!? 脳科学者による脳の最新知見
公開日:2019/7/11
不思議な題名だったので、思わず衝動買いしてしまいました。『パテカトルの万能薬 脳はなにげに不公平』(池谷裕二/朝日新聞出版)という本です。本書は東京大学薬学部・教授の人気の脳研究者が「もっとも気合いを入れて書き続けている」という、雑誌の連載エッセイを文庫化したものです。エッセイはすべて読み切りなので、途中から読んでも十分楽しめます。
著者の解説が加えられた最新の脳科学の知見はどれも興味深いものばかり。ここでどんなテーマのエッセイがあるのか少し見てみましょう。「不平等な世界のほうが安定する」「人の心を動かす“言葉”とは」「IQと遺伝子の複雑な関係」「人が死んだら心はどうなる」「生命はどうやって誕生するか」…。
これらは社会学や心理学のテーマとしても扱われるものです。そうしたテーマを脳科学的な知見から見るとどうなるかを知れば、これまでとは違ったものの見方ができるようになるかもしれません。
また、この本にはすでに発表されたエッセイを文庫化するにあたって、文庫版の特別対談も収録されています。著者とアートディレクターの寄藤文平氏が文庫版の装丁が出来上がるまでを対談した内容をまとめたものです。
この特別対談を読むと、一般的にはセンスととらえられがちなデザインが、どのような過程をたどって作られていくのかを垣間見ることができます。感覚でとらえられてしまうものを言語化すると、こんなにおもしろかったのかと感じる読者も少なくないでしょう。
個人的にもっとも興味深かったのは、著者の文章の構成の仕方でした。たとえば「脳の電気刺激で数学が得意に!?」というエッセイには次のような文章があります。
誰にも得手不得手はあるものです。私は学生時代、数学や物理などの理数系は得意でしたが、国語や英語などの語学系ではずいぶんと苦戦しました。なぜ数学が得意か―そう問われても、自分でもよく理由はわかりません。なぜか、それなりの点数が取れてしまうのです。
ここまで読んだ読者の中には、モヤモヤとした気持ちを持つ人もいるのではないかと思います。「脳科学者が自慢話?」という印象を持ってしまうからです。しかし単なる自慢話ではありません。このエッセイの最後には次のような文が登場します。
コーエン・カドシュ博士は「ある能力を高めることは、別の能力の犠牲のうえに成立する」と説明しています。な、なんと、数学が得意だった私の脳は、もしかしたらその代わりにヒトとして大切な何かを失っているのでしょうか……思い当たるフシがないわけではありませんが。
ここまで読むと、溜飲が下がる思いをするのではないでしょうか。読み手に対して配慮がされた文章になっているからです。一般的に、理数系科目が得意な人は文系科目に苦手意識を持つ人が多いといわれています。著者の文章は淡々とした落ち着いたトーンでありつつも、ところどころでクスっと笑ってしまうようなひねりを利かせたものも多数あります。
本書の脳科学に関する知見は、それ自体が読者の関心をそそるものです。しかし、それ以上に多くの人に届ける文章を書くためには、文系や理数系などの枠組みを超えてさまざまな分野に対する興味や知見を持っている必要があると感じざるをえませんでした。
そのような意味で、本書は純粋に脳科学の領域に興味がある人だけでなく、文章の書き方を勉強している人などさまざまな人が楽しめる本であるといえます。
文=いづつえり