見知らぬ男がインターホンを連打…! どうしたらいいの?/『おいしいベランダ。 午前1時のお隣ごはん』③

文芸・カルチャー

公開日:2019/7/29

進学を機に一人暮らしを始めた大学生の栗坂まもりは、お隣住まいのスーツの似合うイケメンデザイナー亜潟葉二に憧れていた。
ある時ひょんな事からまもりは葉二に危機を救ってもらうのだが、それは憧れとはほど遠い、彼の真の姿を知る始まりで……!?
ベランダ菜園男子&野菜クッキングで繋がる、園芸ライフラブストーリー。

『おいしいベランダ。 午前1時のお隣ごはん』(竹岡葉月:著、おかざきおか:イラスト/KADOKAWA)

 それから数日は、実に平常運転だった。

 慣れない変則的な時間割や、レポート作成に悪戦苦闘しながら学業に邁進し、放課後は書店バイトでレジを打ちまくる。

 バイトが終わって練馬のマンションに帰ってくるのは、どんなに早くても九時過ぎだ。

(おなか減ったでござる……)

 自分は今、実に原始的な欲求に支配された顔をしているに違いない。飯、風呂、その次は寝る。

 世の中には、もっともっとハードなサイクルで暮らしている人もいると聞く。しかし、しんどいものはしんどい。もう少ししたら、今の生活にも慣れるだろうか。

 レンガ色のタイルで装飾された玄関をくぐり、エントランスホールに入る。

 すぐ脇のメールボックスには、先客がいた。

 黒っぽい上着に、着古したデニムをはいた横顔が見える。染めずにそのままの黒髪が、うなじよりも長いので、一瞬女性かと思ったが、男性であっているはずだ。丸まった背の、やや中性的な輪郭。

 はて。うちのマンションに、こんな人いただろうか。

 妙なひっかかりを覚えたが、まもりとて全ての住人の顔を、把握しているわけでもない。そのまま足早に、メールボックスの前を通り過ぎた。

 今はわざわざ順番待ちをしてまで、自分の家の郵便物やチラシを回収する気力もないのだ。

(最近は、亜潟さんにも会えてないしなあ……悲しい……)

 最後に会ったのは、あのメールボックスの前で話した朝か。

 心のオアシスに遭遇できないというのは、こんなにも気力の充実に影響を与えるものなのか。知らなかった。

 五階にある自分の部屋の鍵を開け、廊下を歩いてリビングへ踏み込む。

 いろんなものが山積みになったソファの上に、さらにテキストで満杯の鞄を積み上げ、まずは部屋着に着替えた。

 ごはん、ごはんと呟きながら、キッチンの食料庫を開けた。

「う」

 見事なまでに、何もなかった。

 インスタントラーメンも、レンジでチンするご飯も、ストックがつきている。

「れ、冷凍……」

 ショックを受けながら、冷蔵庫の冷凍コーナーを開ける。だが、食パンも、炊飯器で炊いた、冷凍ご飯もなかった。そうだった、冷凍ピラフだって昨日の夜に食べきったではないか。

(馬鹿! わたしの、馬鹿! 今日はなんにもないから、スーパーで買い物するって決めてたでしょう!)

 家に帰って料理をする段になって、思い出すのでは意味がない。

 まもり。考えるのだ栗坂まもり。きっとどこかに、食べるものがあるはずだ。

 我ながら真剣になって食料庫の奥と最上段、さらには流しの下を点検したら、日本茶の缶と、真空パックの切り餅を発見した。この切り餅はアリだ。採用しよう。

「主食はお餅として、野菜は……」

 まもりは、冷蔵庫の野菜室を確認する。

 脱臭剤と、ニンニクとオレンジしか入っていない。

「……の、海苔って海藻だから、野菜にカウントしていいのかな。いいことにしようね。あとは……ええいキムチも付けよう! 白菜! 超野菜!」

 キッチンカウンターの上に、切り餅二つ、海苔のパック、冷蔵庫からキムチのタッパーを取り出して並べてみた。

 ――欺瞞、という難しい漢字が、頭の中に浮かんで消えた。

 だいたいここを乗り切ったところで、明日の朝はどうする。朝もはよからキムチをたいらげて、満員電車に乗る? 人としてどうなのだそれは。

(ダメ。アウト。ぜったい)

 こうしている間も、カウンターの向こうに広がって見える、リビングの荒んだ光景が、よりいっそうまもりの心を寒々しくさせるのだ。

 涼子がダラスに赴任する時、大型の家具や家電は、そのまま残していってくれた。まもりはそれを、ありがたく使わせてもらっているわけだが、ソファの上には荷物が山積み。テレビも点いていない時は、液晶の埃が丸わかりだ。テレビの前のローテーブルの上には、メイクのセットが、朝に使った時のまま取り残されている。

 まもり以外、誰も片づける人がいないのだから、こうなるのは当たり前だ。

 こういうのが、一人暮らしなのか。

 社宅の頃は、狭い四畳半の中ですんでいたカオスが、今や部屋全体を侵食していた。

 受験生の頃は、今日という日が来るのが楽しみで嬉しくて、いろいろなことに想像を巡らせていた。でも、憧れ続けたあの夢の中に、こんな場面はぜんぜん出てこなかった気がする。

 馬鹿だなあ、わたし。

 思わず自嘲する。いつもこうなのだ。ぼんやりして、何に対してもツメが甘いのだから。

「……い、いや。ここで負けちゃいけない……」

 まもりは、キムチのタッパーを、冷蔵庫に戻した。

 今からでも遅くない。徒歩五分のコンビニに行って、サラダと明日のパンとヨーグルトを買ってくるのだ。

 文化的な生活を、諦めたら試合終了だと、偉い人も言っていたではないか。

 まずは家でくつろぐ姿勢だった体にムチを打ち、部屋着の上から薄手のパーカーを着込んだ。ナイロンのショルダーバッグにお財布と鍵だけ入れ、玄関から表へ出た。

(ショーパンは、無謀だったかな?)

 五月の下旬。日中は夏日になるぐらいの日もあるが、さすがに夜の外気は別なようだ。やや肌寒い。

 むきだしの素足に、さっそく後悔しかけたが、着替えに戻るのも面倒だった。まもりはわざと早足でエントランスを抜け、コンビニに向かった。

 住宅街の暗い夜道を進んでも、その先にコンビニの明かりがあるとほっとするのは、まもりだけだろうか。

 蛍光灯の強い明かりに、染みついた夜が漂白されていくような感じだ。

 まずはお総菜コーナーで春雨のサラダとカット野菜、別のところでヨーグルトとパンをカゴに入れ、雑誌を買うべきかちょっと悩んでスルーする。

 レジで会計をしてくれたのは、同年代に見える男性店員だった。対応はかなりぎこちなかったが、お互いがんばりましょうと、心の中で勝手なエールを送った。

 明日は学校帰りにスーパーへ行く。ちゃんと正しく買い物をする。絶対に忘れない。

 でも今日だって適当ですませないで、コンビニに出直してサラダを買った。明日の朝ご飯もちゃんと確保した。これでもう良しとしようではありませんか。

(部屋の掃除と洗濯は……週末にまとめてするから!)

 そうだ。それまでは、気づかない&見ないふりをして乗り切ればいい。

 出てきた回答に満足して、まもりは家路を急いだ。

 行く時と同じ、五分少々でマンションの入り口にたどりつき、流れですぐ脇にあるメールボックスに向かう。

 鼻歌交じりにダイヤルを回し、中のチラシを取り出し――そこで心臓を、きゅっと掴まれた気がした。

 ――まただ。

 またあのチラシが入っていた。

 口の中に、何も入っていないのに苦みが広がる。

 まともに中を見るのも嫌で、その場でくしゃくしゃに丸めて、パーカーのポケットに突っ込んだ。すぐにその場を離れた。

(しばらくなかったのに。嫌なもの見た)

 エレベーターホールで、なかなか降りてこないエレベーターの到着を待っていたら、

「ねえ」

 声がかかった。

 まもりが不思議に思って振り返ると、知らない男が立っていた。

 あたりを見回しても、彼以外誰もいない。まもりと、その男の人しかいない。ホールのオレンジがかった照明に、男の黒髪がてらてらと光っていた。

 誰これ、と思いかけて気づく。

(あ)

 たぶんさっきの人だと思った。

 バイト先から家に帰ってきた時、メールボックスの前にいた男だ。

 黒っぽい上着は、あらためて見ると、分厚いブルゾンだとわかった。今は五月の半ばを過ぎているのに、完全に真冬の格好だ。

 いくら夜でも暑くないかと思ったが、長髪の額に浮かぶ汗を見て、ちぐはぐさに拍車がかかる。

「ひ、ひさしぶり。髪型、変えたんだね。ずいぶん、雰囲気ちがった」

 なに言ってるのこの人。

 こんな人知らない。わからない。

 こわい――。

「ショートも、似合うと思ってたんだ。僕の言った通りだ」

 だから知らないよ。あんた誰。

 まもりは、思わず後ずさる。待っているエレベーターが、ようやく一階に降りてきた。でも、この男もついてきそうな状況で、乗り込む気になどなれない。

 開いたエレベーターを放置したまま、奥にある階段へ行こうとした。

「無視かよおい!」

 いきなり手首をつかまれた。

 その声や握力の強さよりも、ぐっしょりと濡れた手のひらの感触に、悲鳴が出そうになった。全身が粟立った。

「やめて」

「馬鹿にすんなよ。無視なんてしていいと思ってんのか。写真の件だって終わってないんだぞ。え!?」

「や、やめてくださいって、言ってるでしょお!?」

 拒絶の声は、悲しいぐらいにひっくり返った。つかまれた手を振り払ったら、コンビニ袋がすっぽ抜けた。春雨サラダがホールの床に散乱した。

 男が「あーあ」という顔をした。でも構っていられなかった。まもりは全速力で男から逃げた。

 五階ぶんの階段を、休まず一気に駆け上がって、自分の部屋の前までたどりつく。

(鍵)

 恐怖のせいか息切れのせいか、手がひどく震えて、ショルダーバッグの中の鍵がうまく探せない。ようやく鍵を見つけ、鍵穴に差し込む。

 表、裏、今度はなかなか正しく入らない。どうか落ち着いて。でも速く。

「はや、はは、はやく、はや」

 ようやく鍵が、鍵穴にはまる。いそいで回して中へ入る。

 ――ピン、ポーン。

(!)

 心臓が押し潰されそうになる。

 とっさに玄関から離れた。壁づたいに廊下を後ずさる間も、インターホンは鳴り続けた。リビングまで来ても、まだ。

 ドンドンドンと、拳でドアを叩く音もした。

「栗坂さあん、いるんでしょお」

 間延びした、あの男の声。

(……ちょっと待って。わたし、あのあと鍵閉めた?)

 大急ぎで部屋に入って、その後。

 記憶がかすんで曖昧だ。閉めたような気がする。閉めていないような気もする。

 閉めているなら、まだいい。

 でも、もし閉め忘れているなら――。

「栗坂さあん! 最近マジで変ですよ。どうかしちゃったんですかあ」

 こいつが中に踏み込んできても、おかしくない。

 インターホンの連打とドアノックが続く中、まもりは大慌てで辺りを見回した。

 玄関側にあるトイレやバスに近づくのは、無理だ。鉢合わせしそうで怖い。

 少しでも音が聞こえない場所へ、遠くへ。背後にあるベランダへ出て、ガラス戸を閉める。しゃがみこんで耳をふさいだ。

(何が最近変よ。写真の件? あんたなんて知らない。見たこともない――)

 ――本当に?

 恐怖に押し潰されそうな脳裏に、ちりりと違和感が走った。

 まもりはもう一度、記憶を巻き戻してみた。チラシ入れの前にいた、どこか中性的な猫背。半端に伸びた長髪。真冬仕様のブルゾン――。

(冬)

 まもりは、ハッとした。

 パーカーのポケットを探って、丸めてしまいこんでいたチラシを取り出した。

 くしゃくしゃになっていた紙面を伸ばし、そこに印刷された写真に目をこらす。

 暗すぎてよくわからないが、今の男とそっくりの男が、この中に写っていた気がする。何十回も、繰り返し見てきたのだ。

 ――ピン、ポーン。

 ガラス戸を閉めてもなお、恐怖の音は聞こえてくる。

(もうやだ)

 まもりは目を閉じた。

 一人暮らしの本当の怖さが、わかっていなかった。冷蔵庫に何もないなんて、テレビの埃がうっとうしいなんて、そんなのどうでもよかった。不便さなんてがまんできる。

 一番怖いのは、たぶんこういう時に助けを求める相手が、近くにいないことだ。

(――佐倉井君。警察に相談って、電話したらいつ来てくれるの? 何分かかるの?)

 答えはない。

 今のまもりは、ベランダのガラス戸を開けて、ソファの上に置いた鞄から、スマホを取り出すことさえ難しいのだ。足が震えてしまって動かない。

 五階という高さが、今さらながら、恨めしくてたまらなかった。

 明日出す資源ゴミの袋だけが置かれた、砂っぽい真っ暗なベランダ。コンクリートの上に、自分がこぼした涙の跡だけができていく。

 そして。怯えきったまもりの耳元に、ガラリと――ガラス戸が開く音が飛び込んできた。

(え)

 まもりは慌てて、濡れた顔を上げた。

 どうやらお隣の住人が、ベランダに出ているらしい。

 避難通路の隔壁越しに、人の気配や物音がする――気がする。

「……そろそろ替え時かな、これは」

 小さな独り言まで、聞こえてきた。

 この声は――亜潟葉二だ。

 まもりはもはや、なりふり構っている余裕などなかった。

「あの、亜潟さん」

 空から下りてきたお釈迦様の糸に、手をのばすつもりで言った。

 かすれそうになる声を、細く締まりそうになる喉を、必死に叱咤して振り絞る。

 隔壁の向こうにいるはずの人に、どうか届いてと。

「亜潟さん。亜潟さんですよね。お願いです。助けてください」

 まだ反応はない。

「変な人が、追いかけてきてるんです。ずっと家の前にいて。インターホン鳴らして。こっちには覚えなんてなんにもないのに。怖くて」

 喋っているうちにも、下で手をつかまれた時の恐怖感が蘇ってきて、うまく話すことができなくなりそうになる。でも落ち着いてと、心を奮い立たせて言い聞かせる。

 ちゃんと落ち着かないと、この糸だって切れてしまう。

「だからさっきからここ、ぜんぜん動けなくて。助けて、くれませんか。お願い、します。亜潟さん」

 お願いだから。

 どうか。

「……表でずっと騒がしいの、そのせい?」

 落ち着いた低い声が、ひと言返った。

 返ってきた!

「……は、はい。そうなんです」

「わかった。じゃあ、そこにいて。様子見てくるから」

 会話はそれだけ。まもりが待っていても、亜潟葉二はそれ以上何も返してこなかった。

 本当に、様子を見に行ってくれたのだろうか。こちらの言うことを、聞いてくれたのだろうか。

 まもりがベランダにいては、確かめる方法もない。

 ただ、ずっと続いていたインターホンの連打は、なくなっていた。

<第4回に続く>

著者プロフィール:竹岡葉月
1999年度ノベル大賞佳作受賞を経てコバルト文庫よりデビュー。以降、少女小説、ライトノベル、漫画原作など多方面で活躍