『天気の子』は『君の名は。』からの還元…「僕自身の実感や時代の気分をエンターテインメントに」新海誠監督インタビュー
更新日:2019/8/10
雲の上の不思議な世界。歌舞伎町のディープな裏路地。雨が降り続く東京の街並み──。リアルとファンタジー、科学的想像力と民俗学的想像力が絶妙に混交する世界の中で、新海誠監督は少年と少女に何を選ばせたのか。本作における「自分の役割」とは何だったのか?
あの夏の日、あの空の上で僕たちは、世界のかたちを変えてしまったんだ映画オープニングのモノローグ
主人公・帆高のモノローグで幕を開ける映画『天気の子』は、そこから時間軸がぐるっと巻き戻り、海を進むフェリーの内部へと場面が移る。帆高は高校1年生で、東京へ向かう家出少年だった。船内放送が激しい雨の予報を告げると、「やった」。今なら甲板を独り占めできると外へ出て、空を見上げると額に雨粒が当たった。「……来た!」。大粒の雨が降り注ぎ、少年は「すっげぇー!」と笑顔で駆け回る。
胸に熱いかたまりが湧き上がる。密かに島を出てから半日、僕はようやく心からの解放感に満たされていく『小説 天気の子』第一章より
雨は、風景を劇的に変えるということ。雨を喜ぶ、その感情によって表されるドラマがあるということ。晴れの日ばかりではなく雨の日もまた、美しいものであるということ。それは、雨の表現にがっぷりよつで取り組んだ『言の葉の庭』(2013年)をはじめ、新海監督がこれまでの作品世界で描き続けてきたことだ。しかし、『天気の子』はそこから大きくはみ出していく。帆高の上に、途轍もない量の雨――小説の描写によれば「巨大なプールを逆さにしたようなものすごい量の水」――が襲いかかり、その衝撃で甲板の外へと投げ出されかける。実写ではできない、アニメーションならではの「間一髪」の表現で、ギリギリ回避された主人公の死。
鳥肌が立っていた。開始5分で天気の美しさだけでなく、怖さをも感じさせたこの映画は、天気が「敵」として主人公たちの前に立ちはだかる、「ディザスター(災害)ムービー」の変種だ。そう伝えると、監督は自身が率いるチームの功績について力強く語った。
「そんなふうにフェリーの上で降ってくる雨を体感していただけたんだとしたら、本当に嬉しいですね。天気は人間にとって圧倒的なものであり、“すごい!”と唸らされるものである。あの雨のシーンではその感覚を、説得力をもって表現する必要がありました。アニメーターの力、美術の力、音響の力……それから、ほぼ雨に専念してもらったVFXチームや撮影の力が組み合わさって、成し遂げられたシーンだったんです」
そして、本作において天気が「敵」である理由を教えてくれた。
「『君の名は。』は男女が入れ替わるという設定でしたが、少し見方を変えると、夢のお告げによって少女が救われる物語でした。隠された真実を夢が教えてくれる、夢の世界と現実の世界を行き来するという日本の昔話の定番なんです。次の映画でも、昔から日本で語り継がれてきた物語の力を借りて作りたいなと考えた時に、たどり着いたのが人身御供譚でした。ものすごく簡単に図式化すると、共同体には敵がおり、敵に人柱を差し出すことによって共同体は安定する。そのしきたりを、外部からやってきた人間が、敵を倒すことによって断ちきるという構造を持つ物語の類型です。ただ、今僕たちの住んでいる世界は、RPGゲームのように魔王を倒したら調和が戻ってくる、倒すべき敵が一人いる、ということはあり得ないですよね。それでも、なんとかして敵に当たるものを設定しなければいけない。それが、倒そうとしても倒せない、天気という存在だったんです」
自分たちのチームが、空や雲、雨の表現にトライし続けてきたことも、天気を物語の主軸に据えようと決めた一因となった。そしてもう一つ、『君の名は。』公開後に物語を構想したからこそ入り込んできた、誰もが身に覚えのある肌感覚も重要だった。
「ここ3年くらいの生活実感として、天気が暴力的になってきたという感覚があると思うんです。ゲリラ豪雨や猛暑日という表現が珍しくなくなってきて、どの季節に関しても異常気象というニュースが報じられている。異常がもはや常態になっていて、日本の美しい穏やかな四季の情緒が感じられなくなってしまった」
だから――映画の、ある登場人物は言う。「昔は春も夏も素敵な季節だったのに」。
倒そうとしても倒せない「敵」が天気という存在だった
「大人たちは“四季がなくなってしまった”あるいは“昔はよかった”と言って嘆くけれども、今の四季しか知らない子どもたちにとっては“そんなの知らない、関係ないよ”って感じだと思うんですよ。大人たちの憂いや心配、後悔のようなものを軽々と飛び越えていく可能性が、若い世代にはある。そのこともまた、天気というテーマに絡めて描いてみたかったんです」
天気の子×新海誠 3つの「選択」
1.『君の名は。』からの還元
国内動員数1900万人超と母数が桁違いに増えた結果、否定的な意見も数多く耳にすることになった。ならば次はもっと、人によっては眉をしかめるような物語を語ろう——。前作が大ヒットしたからこそ、生まれた物語だった。
2.小説を書くということ
自作のノベライズは4作目。映画の製作と同時進行で執筆するのは、『小説 君の名は。』に続き2作目の試みだった。心情を書き込める小説は、登場人物の理解度向上につながる。その経験は、アフレコ時の演出に活かされた。
3.RADWIMPSと再タッグ
今回もRADWIMPSが主題歌と全ての劇伴を担当。きっかけは、新海が書き上げた脚本をボーカルの野田洋次郎に送ったこと。3カ月後に2曲のデモ曲が突然届き、その仕上がりに感銘を受けた新海が、野田に音楽を正式にオファー。
思春期の衝動と「大人」の諦念
スタッフワークは盤石の布陣を敷いた。母体となったのは新海監督が02年の商業デビュー時より所属している、コミックス・ウェーブ・フィルム。川口典孝社長は荻窪に新スタジオを構え、『君の名は。』制作時の倍近いスタッフを動員した。プロデューサーの川村元気、キャラクターデザインの田中将賀らは前作から続投、スタジオジブリ出身の田村篤が作画監督として初起用され、滝口比呂志が『言の葉の庭』以来となる美術監督を務めるなど、錚々たる顔ぶれだ。
「『君の名は。』を経て、チームとしてやれることが増えていっている、エンタメとして力のあるものを出せるという自信がまずあったというのは大きいですね。そこに自信があったからこそ、エンタメからは少しはみ出るような、自分の実感に近いメッセージを込めたとしてもきっと大丈夫だ、と思えたんです」
新海はかつて本誌のインタビューで、『君の名は。』が大きな支持を集めることとなった理由の一つは、「物語の強さ」だったと語っていた(2017年1月号)。今回もプロットの段階から積極的にスタッフの意見を聞き、自分が立ち上げようとしている作品の可能性を掘り進めながら、「物語の強さ」を磨き上げていった。新海の紡ぐ物語が、日本のみならず世界中の人々に受け入れられる要因は、思春期の表現にある。『天気の子』も、そのど真ん中を行く。
「離島に暮らしている帆高は、雲の移り変わりとともに動いていく日差しを自転車で追いかけて、“あの光の中に行こう”と言います。今自分がいる場所とは違うところに、もっと自分のことを分かってくれる人がいるのではないか、もっと好きになってしまう人がいるんじゃないか。東京に憧れて家出をする帆高の中にあるものは、思春期の衝動そのものだと思います。ヒロインの陽菜がつぶやく“早く大人になりたい”という言葉も、もっといろんなことを知りたい、もっと自分が成長したいという気持ちの表れですよね」
一方で本作は、少年と少女を見守る、大人たちの存在感がかつてないほどに増している。帆高が住み込みで働くことになる編集プロダクション社長の須賀、アルバイトの夏美。小説版では彼らが語り手となり、自らの内面を告白するパートも採用されているほどだ。
「須賀は帆高に“大人になれよ”とか言うくせに、自分は大人にちゃんとなれていないと思うんです。大学生の夏美は“大人になりたくない”と思っていて、モラトリアムの中にいることを自覚している。そもそも、大人になるって実際はどういうことなんでしょうか。僕自身が最近思うのは、歳を取って人生を締める方向に向かっていくに従って、人はいろんなことを諦めていくわけですよね。老化とともにかつてできたことができなくなることもあれば、新しくやれることも減っていく。それを受け入れて諦めるしかない状態が、単純ですが大人になるということの本質のような気がするんです」
「大人なんて別に、君たちの役には立たないよ」
確かに『天気の子』の中で、大人たちは「諦める」という選択肢を行使している。例えば、降り続く雨の影響で車やバイク、電車が止まってしまったら、諦めてその場で立ち尽くす。
「子どもを助ける大人というよりは、役に立たない大人を描いているんです。もちろん、大人にも何かの救いのようなものが必要かなと思って描いているシーンは多々あります。子どもたちの役に立ちたい、という気分は僕自身の中にもある。でも、“大人なんて別に、君たちの役には立たないよ”という映画であっていいと思っているんですよ」
だから、子どもたちは走るのだ。諦めた大人たちを置いて、道なき道を足で蹴り、体を前へ前へと進めていく。映画は、そのたくましい姿を映し続ける。
自分たちと地続きのこの世界の話なんだ
ボーイ・ミーツ・ガールの内側に思春期の輝きや痛みを目いっぱい詰め込んだ本作は、SF作品としても魅力的だ。特に印象的なのは、雲の上に広がる草原のような世界、そこに生息する不思議な生き物たちの描写。
「まず、雲がテーマの映画でもありますから、雲の形はなるべく正確に描きたいなと思いました。気象予報士や研究者の方々にお話を伺い、上空の気象現象に理屈をつけながら一つ一つの雲を描いていっています。そのうえで、雲の上に未知なる生態系が広がっているとしたら、どういう理屈がつけられるのか。どう受け取っていただいてもいいんですけれども、僕自身がイメージしていた空の世界、空の魚は、人間が捉えられる可視光線の波長では見えない世界っていうつもりなんですよ。例えば昆虫や鳥は、人間に見える色は見えないけれど、人間には見えない色が見えたりするわけですよね。それと同じように、空の中に存在しているんだけれども人間の目には見えないものも、天気とつながってる存在ならば見えるんじゃないかな、と」
そうした科学的想像力に、民俗学的想像力が絡み合ってくるところが、この作家らしさだ。
「昔からある日本の風習や伝承を物語に材料として取り入れて、飲み込みやすいエンターテインメントにする、ということは意識的にやっています。例えば、お盆というワードを持ち出すと、空の上は確かに彼岸だなぁと、理屈以前の感覚として納得してしまうところがあると思うんですよ。他にも、鳥居を目にすると、なんとも言えない不思議な感情が芽生えますよね。東宝で夏に公開する以上、世界的ヒットを目指す作品でもあるんでしょうけれど、僕自身は何よりもまず日本の観客に受け入れてほしいですから、日本人の生活実感は入れていきたいし、そうやって物語を作るのが楽しいんです」
生活実感。新海の口から出たその一語は、本作にとってキーワードの一つだ。
「日本社会の現実を見渡してみた時に、生活実感として明らかに、若者たちが自由に使えるお金はどんどん少なくなってきている。若い観客に“これは自分たちの話だ”と思ってもらうために、帆高や陽菜は金銭的に苦しい状態にあるという設定を取り入れています。ただ、お金がない中でも工夫して、楽しそうに生きているっていう姿を描きたかったんですよね。陽菜の自炊シーンには、そんな思いも込めています」
観客の生活実感とリンクさせるために、アニメ作品としては珍しく、固有名詞や実在の事物を、積極的に画面に取り入れていったのだ。
「商標の問題や、許諾を取らなければいけないとかいろんな理由があるんでしょうけれども、アニメーションの世界ではそれが基本的にNGとされ、パロディーのような描き方しかできないことに、以前から違和感があったんです。今回は許される限り実在のものを描きたいと、かなり早い段階でスタッフにお願いしました。例えば、上京組である僕にとっては、東京の入口のように感じられる新宿、中でも駅近くのマクドナルドは、東京の象徴のような場所なんですよね。そこで帆高に、陽菜が差し出すビッグマックを食べてほしかったんですよ。でも、最初は成立しなかったんです。どうしても使わせていただきたくて、日本マクドナルドの広報の方に、僕も直接お願いをしに行ったんですね。幸せなことにOKをいただき、帰りにたくさんマックカードをもらったので、後でスタッフに配りました(笑)。その他にも、どうしても許諾がいただけない場合は、なるべく実在感を感じさせるデザインを徹底する、ということを繰り返しました。そうすることで東京という街と空間の実在感を高め、観客に“自分たちと地続きの、この世界の話なんだ”と感じてもらいたかったんです」
コミュニケーションを発生させるという役割
自分たちと地続きの世界の話――。そのフレーズと、雨が降り続いている東京というイメージは、結びつかないように思えるかもしれない。だが、「天気」は人々の「気分」と密接に結びついている、という帆高と陽菜の気付きを補助線に加えてみるとどうだろう。降り続く雨は、現代を生きる人々の「気分」を表しているのではないだろうか。
「作中に“世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから”というセリフがありますが、そういった気分は日本だけでなく海外でも広がっているのではないかという実感はあります」
物語世界においても、「世界を救うこと」と「誰かを救うこと」を直結させるような選択は、2019年の今はできない。
僕自身の実感や時代の気分をエンターテインメントにしたい
「帆高と陽菜の選択を描く場面で、『雲のむこう、約束の場所』(04年)を思い出したというご指摘をいただくことがあるんですが、あの頃はやり方次第で世界の調和を取り戻せるんじゃないか、という気持ちが僕の中にまだあったんだと思うんです。でも、ある種の諦め、諦念もまた、あの作品の時点で既に流れていたように思います」
日本は、変わる(変えられる)。世界は、よくなる(よくできる)。年齢を重ね大人になった今は、そんな希望をほがらかに語ることは、「無責任に過ぎる」(新海)。そのリアリティを保持しながらも、いかにエンターテインメント作品として決着をつけることができるのか。その結果たどり着いたのが、帆高と陽菜のあの選択だったのだ。
「その道筋をクリアにしてくれたのは、RADWIMPSがこの映画のために奏でてくれた音楽であり、のちのちストーリー展開を決める話し合いにも参加してくださった、(RADWIMPSのボーカルの)野田洋次郎さんが書き下ろしてくれた歌詞たちでした。例えば、『グランドエスケープ』の〈「せーの」で大地を蹴って ここではない星へ 行こう〉。『愛にできることはまだあるかい』や『大丈夫』のサビの歌詞は、物語のラストシーンに直接影響を与えています」
この日の取材は、映画公開の直前に行われた。前日の晩、野田からメールをもらったそうだ。
「帆高と陽菜の決断、汚れのないあの二人の純粋な思いが、ないがしろにされるような世の中じゃなければいいなと願っています、と書いていてくださっていて。つまり、この作品が結末に関してきっといろいろ言われるだろうということを、彼も分かっているんですよね。あぁ、ありがとう、僕も同じ気持ちですって返信をして、ちょっと涙ぐんだりしちゃいながら眠って(笑)」
「だから今日はよく眠れたんです」と笑顔を見せた後で、「もしも……」と言葉を続けた。
「ラストのセリフを、むき出しのメッセージにして差し出したとしても、なかなか受け入れてはもらえない。でも、映画の中であれだけの雨を降らせて、あれだけのドラマを詰め込んだ、その先にたどり着いたあの場所で手渡されるのであれば、彼らの思いに共感してくれる人はいるかもしれない、と思うんです」
最後に聞いてみた。陽菜はこの世界における「自分の役割」という言葉を何度か口にしていた。新海監督にとって、この世界における「自分の役割」とはどんなものなのだろうか。
「『君の名は。』が想像もし得ない多くの観客に観ていただけたことで、抽象的な言い方になってしまうんですが、社会から何か大きなものをもらったような気がしました。だったら次は、社会に何かを還元するような映画にしたい。それが今の自分の役割だろう、と。その何かというのは、コミュニケーションを発生させることだと思うんですよ。エンターテインメントとしてきちんと面白いものでありながら、観終わった後に“よかった”とか“許せない”とか“共感した”と発信したくなったり、“僕は共感したけど、君はどう思ったの?”って隣の人に問いかけたくなる、コミュニケーションのきっかけになるような作品ができあがったということは、自信を持って言えるんです」
そうしたコミュニケーションの声は、新たなチャレンジを導くことにもつながっていく。「2019年の夏に観て、感想をいただけたら嬉しいですね。できれば小説も読んでいただければと思います。映画を観ていてもなお楽しめる、小説になっていますので。次は……もう1本、エンターテインメント映画を作りたいと思います。僕自身の実感や時代の気分、“今”というものを、エンターテインメントのアニメーションとして表現したい。この数年のスパンで言えば、それが自分の役割です」
取材・文=吉田大助 写真=森山将人
(8/6発売『ダ・ヴィンチ』9月号より転載)