史上初! 平壌郊外の殺人事件を描く衝撃ミステリー。ある容疑をかけられ収監される父をもつ主人公は… / 松岡圭祐『出身成分』①

文芸・カルチャー

公開日:2019/8/17

貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である――。史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸!主人公のクム・アンサノは北朝鮮の警察組織である人民保安省の保安署員。ある日、11年前に起こった凶悪事件の再調査を命じられるが、過去の捜査のあまりのずさんさにショックを受ける。「万能鑑定士Q」シリーズの松岡圭祐による衝撃の社会派ミステリ長編。

『出身成分』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 本書は脱北者の方々による、多岐にわたる証言に基づいている。

 マスコミに登場する北朝鮮は、首都平壌(ピョンヤン)にかぎられる。だがこの物語は、郊外におけるごくふつうの殺人事件とその捜査を、初めて描いている。

 ここに書かれた顛末に、非常に近いできごとが現実に報告されている。

 事実を踏まえているため、地味で複雑な内容であるが、結末に至るまでに、その背景に潜む真相にお気づきになるだろうか。

 貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。

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 破裂に似た音とともに、ふいの衝撃が車体を揺るがす。とっさにブレーキを踏んだ。慣性の力で前のめりになる。制動距離が延びていく。甲高くきしむノイズとともに急停車した。人を撥ねたかに感じられたが、もう事故ではないとわかっていた。

 フロントガラスを豪雨がしきりに洗い、視野は歪に波うつ。国産の古い小型セダン、フィパラムのワイパーは動作も緩慢だ。滝のような激流をぬぐいきれるものではない。ヘッドライトの光量も足りてはいなかった。黄昏どきに見まごうほどの暗さだった。

 それでもクム・アンサノは現認した。やはり衝突事故ではない。粗末なシャツに半ズボンの少年が、雑草の茂る道端から飛びだし、みずからボンネット上に身を投げてきた。無謀なひとり芝居を、アンサノはたしかにまのあたりにした。

 やせ細った少年はさも痛そうにうずくまり、クルマの前方へと転げ落ちていった。

 辺りにひとけはなかったはずが、草むらから三人が姿を現した。やはり少年がふたりと、保護者らしき大人の男がひとり。体型はみなモヤシ、揃って貧相だった。十月の肌寒い日というのに、薄着なのも共通している。傘もささず全身ずぶ濡れのまま、そそくさと路上に繰りだしてきた。

 アンサノは自分のため息をきいた。運転席のドアを開け放ち、車外に降り立つ。靴がぬかるんだ地面にめりこむ、独特の不快な感触があった。

 近づきつつあった男が、ぎょっとした顔で足をとめた。人民保安省のバッジと、保安署員の腕章に気づいたらしい。泡を食ったように身を翻した。

「やべえ」男が少年らに怒鳴った。「ずらかれ」

 家族にちがいない。あたふたと腕を振りまわし逃走に転ずるさまが、三人とも似通っている。いや四人だ。クルマの前方、泥まみれで横たわっていた少年も、ただちに跳ね起きた。汚水をたっぷり吸ったシャツが背に貼りつく。ひきずった片脚は芝居ではないようだ。日に何度も身体を張るうち、本当に負傷したのかもしれない。

 かすかに金属音が響いた。少年の尻のポケットから、数枚の硬貨がこぼれ落ちていた。

 はっとする反応をしめし、少年が立ちどまった。水たまりに這いつくばり、必死に硬貨をかき集める。その視線があがった。憂いのまなざしがアンサノを見つめてくる。二枚はアンサノの足もとに転がっていた。

 アンサノは泥に埋もれた硬貨を拾いあげた。十チョン、それに五チョン。百チョンで一ウォンだが、インフレが急速に進んだいま、石ころほどの価値もない。

 それでも少年にとっては大事な稼ぎの一部なのだろう。アンサノは黙って硬貨二枚を差しだした。

 少年はびくつきながらもにじり寄ってきた。彼の財産をつかみとると、たちまち遠ざかっていった。

 アンサノはなにも感じなかった。当たり屋にいちいち驚いてはいられない。炭鉱と田畑しかない价川(ケチヨン)市では日常の風景だろう。未舗装の路面なら、ボンネットから転落しても怪我はない。ぬかるんでいればなおさらだった。

 中央放送によれば、アスファルトの道路が増え、国土の一割近くに達したという。とても実感が湧かなかった。たぶん平壌にかぎった話だ。

 ボンネットの凹みが気になったものの、どうせ自分のクルマではない、そう思った。課長が手配してくれた保安署の車両だ。この国には本来、個人の所有物などありはしない。

 物憂げな気分とともに、アンサノは運転席に戻った。シートに身をあずけ、天井を仰ぎながらひと息つく。

 頭に血が昇らなかったのは、ただ歳のせいかもしれない。四十代になると分別がついてくる。ひと晩の食糧を求め、死にものぐるいの餓えたる民に、いちいち噛みついてはいられない。誰もが運命を等しくしている。配給が慢性的に滞る世のなかで、ろくに給料すら受けとれず、法の番人を気どるなど滑稽でしかない。いったい誰を断罪しうるというのか。

 別の当たり屋に遭遇したくはない。グローブボックスを開けた。保安署の車両をしめす国章いりのプレートをとりだす。赤い星に白頭山と水豊ダムを、リボンで束ねた稲穂が縁どる、そんな図柄だった。ダッシュボードの上に立てた。周囲がどんなに暗くとも、みなフロントガラスのなかのプレートには気づくものだ。管轄ちがいだが、かまいはしない。

 グローブボックスを閉めようとして、ふとメモ用紙が入っているのに気づいた。鉛筆書きだった。馴染みのない事件の概要ばかりが並んでいる。日付はいずれもだいぶむかしだが、それでも二十一世紀に入ってからだ。

 主体九二年十一月二十八日、薬田里(ヤクチヨンニ)にて自転車盗難。同年十二月十八日、雲井里(ウンジヨンニ)の民家物置にて雪駄盗難。主体九三年四月六日、興五里(フンオリ)の畑にてトウモロコシの種盗難。同年五月十八日、興五里の別集落にて食用犬盗難、一キロ離れた山林で焼かれた犬の骨発見。同年九月七日、金豊里(クムプンニ)にて農家が収穫後の松茸、籠一杯ぶん盗難。主体九四年六月十九日、南陽労働者区(ナミヤンノドンジヤク)の路上にてカバンのひったくり、現金八千二百ウォンが被害。主体九五年三月二十日、七里(チルリ)の民家にて空き巣、食糧盗難。同年八月十八日、蛇山里(ササンニ)の民家に押しこみ強盗、壺ふたつと野菜、米など奪取。主体九六年四月三日、新豊里(シンプンニ)にて婦女暴行、被害者が携帯していた農具奪取。同年七月二十六日、薬田里にて強姦、金品強奪。

 誰かがメモを忘れていったのだろうか。肅川(スクチヨン)郡のなかばかりだが、大半はほかの地域署の管轄になる。郡人民保安部の職員も、こんなボログルマを借りているらしい。不況のきわみだった。

 メモ用紙をグローブボックスに戻した。蓋がちゃんと閉まらず、何度も叩きつけた。ふたたびクルマを発進させる。

 満浦(マンポ)線の駅が近いせいか、自転車に乗った女学生と頻繁にすれちがう。左手に傘をさし、右手でハンドルを操作していた。こちらを一瞥すると、迷惑げな顔で自転車を降りる。

 スカート姿の女性が自転車に乗っていれば、公序良俗に反する。最近になり法令が解除されたとの報道があったが、やはり平壌やいくつかの都市のみが対象だった。この辺りでは依然、地域の保安員により警告がなされる。ただし自転車を手で押して歩くぶんにはかまわない。理不尽なルールながら、女学生たちはうわべだけでも従っている。

 国じゅうどこでもそうだ。かつては恐怖そのものだった法が、しだいに骨抜きにされていく。もはや人民にとって最大の脅威ではない。髪を長く伸ばすのは、平壌在住の女性のみに許される特権だが、ここの女学生たちも同様にしている。一見めだたないのは、髪を後ろでまとめているからだった。韓流ドラマの海賊版ソフトがでまわっている昨今、髪型ぐらい若者らの好きにさせればいい、誰もがそう思っている。

 時代が変わり、価値観も以前と同じではなくなった。だが新たな価値観とはなんだろう。わからない。目の前で揺れるワイパー、負けじと降りかかる無数の雨粒、泥水の川と化した悪路。なにもかも同じだ。子供のころから進歩がない、発展もない。なのに見えないふたしかななにかが変わっていく。

 ぼんやりとした思いだけが胸に疼いた。家族か仕事か。どちらに重きを置けばいい。ずっと国家第一と教わってきた。こんな天秤の使い方には、まだ順応できていない。

 仕事のみに目を向けようと、そこにはもうひとつの天秤がある。職務を国のためと信ずるのはたやすかった。だが片方には別の錘が載せられている。個人の尊厳と権利だった。いまはもう無視できない、時代が求めている。

第2回に続く

松岡圭祐
1968年、愛知県生まれ。デビュー作『催眠』がミリオンセラーに。大藪春彦賞候補作「千里眼」シリーズは累計628万部超。「万能鑑定士Q」シリーズは2014年に映画化、ブックウォーカー大賞2014文芸賞を受賞、17年には吉川英治文庫賞候補作に