渦巻く疑念、さまよう殺意……。“どんでん返しの女王”が放つ、衝撃のアートミステリー!
公開日:2019/8/22
『火のないところに煙は』(新潮社)が本屋大賞にノミネートされ、ミステリーファン以外にもその名が広く知られるようになった芦沢央。待望の新作となる『カインは言わなかった』(文藝春秋)は、芸術に人生を捧げた者たちの苦悩と葛藤を、周囲の人びとの視点を交えながら描ききった、サスペンス色濃厚な長編ミステリーだ。
大学生・嶋貫あゆ子の携帯に、恋人の藤谷誠から奇妙なメッセージが届いた。記されていた文字は、「カインに出られなくなった」。それ以来、誠とは連絡が付かなくなってしまう。カインとは、誠が所属するバレエ団・HHカンパニーの次回公演『カイン』のこと。旧約聖書に登場する人類最初の殺人者・カインを演じるため、誠はこれまで厳しい練習に耐え抜いてきた。それが公演3日前になって「出られなくなった」とは? 不安に駆られたあゆ子は、必死になって恋人の足取りを追いはじめる。
一方、不動産会社に勤める皆元有美は、物件探しに訪れた男・藤谷豪に声をかけられ、誘われるままに肉体関係を結んでしまう。気鋭の画家として活躍する豪は、いかにも異性とのつき合いに慣れていそうなタイプ。しかも彼のそばにはいつも、作品のヌードモデルを務める女性の存在があった。身勝手な子どものような豪に振りまわされ、有美は少しずつ精神のバランスを崩してゆく……。
異なる分野でそれぞれ才能を発揮する藤谷兄弟。聖書にある「カインとアベル」の逸話を彷彿させる2人の関係をはじめとして、作中にはいくつもの人間関係が並行して描かれてゆく。カリスマ芸術監督でHHカンパニー主催者の誉田規一と、急遽カイン役のレッスンを受けることになったダンサー尾上和馬の師弟関係。その誉田に娘を殺されたと信じる主婦や、パワハラ的言動に苦しめられた「被害者」たち。
同時進行してゆく複数のエピソードは、じわじわと不穏なムードを高めてゆく。誰が誰を傷つけるのか。冒頭に置かれていた悲劇のシーンは、どういう意味をもつのか。なかなか事件の全体像がつかめない本作は、フーダニット(誰がやったのか?)のミステリーであると同時に、「何が起こっているのか?」を問うタイプのミステリーでもある。
そして訪れる衝撃のクライマックス。芦沢央といえばどんでん返しを含んだ作品で知られるが、本書でもその手腕は健在。ネタを明かすことになるので詳しくは語れないが、公演直前に明らかになる光景はショッキングだ。しかも、それが単なるサプライズに終わらず、物語と密接に関わっているのが素晴らしい。真相を知ったうえで冒頭から読み返すと、それまで視界に入っていたはずなのに見えていなかった、ある切実な物語が浮かんでくる。
才能とは何か。芸術には人を傷つける権利があるのか。作中、さまざまな人物の口を通して語られてきたテーマが、意外な真相によってさらに深められる、という作りになっている。芦沢央、畏るべし!
こう書くと堅苦しい物語に感じられるかもしれないが、むしろリーダビリティーは抜群。ページを開いたら最後、約350ページの物語を一気に読まされることになる。生彩に富んだエピソード、共感を誘う人物描写、そして圧巻のダンスシーンなど、冒頭から結末まで見せ場の多い作品だ。
デビュー作以来、隅に追いやられた人びとの叫びに耳を傾けてきた芦沢央。アート小説にしてミステリーでもある『カインは言わなかった』は、そうした作風のひとつの頂点をなす作品といっていいだろう。2019年後半、本好きの間で話題を呼ぶことは間違いない。
文=朝宮運河