エロスと暴力に満ちた欲望まみれの地獄を辿る。堕ちても安心(?)な地獄ガイドブック
公開日:2019/8/28
「私たちは皆平等に、生まれながらにして、地獄に堕ちる資質を与えられている」
『地獄めぐり(講談社現代新書)』(加須屋誠/講談社)には、このような一文がある。
正直、ちょっと怖い。だが、これは何も読者を不安にさせようとしているわけではなく、「事実」なのだという。本書には、新書という形式ながらも多くのカラー図版と共に、地獄の光景を視覚的に深めつつ、その解説や、基本的な地獄の構造などが紹介されている。
また、そういった地獄情報だけではなく、「なぜ人は地獄に惹かれるのか」。怖いと思いながらも、どうして地獄絵を観てしまうのか。そのように人の隠されている内面を考察し、読者に新しい「地獄への『まなざし』」を示す1冊でもある。
■地獄絵にはエロスと暴力が溢れている、その理由は
地獄は、人間の無意識の世界に通じているという。地獄は暴力と破壊に溢れた世界。それは、地獄を「観る者」にとって、潜在的に破壊の衝動(暴力)と性の欲望(エロス)を感じさせる。私たちは誰しも、それら2つの欲動を抱いているが、普段は自我によってコントロールして生きている。しかしその抑圧された欲動を解放してくれるのが地獄であり、地獄絵は、「自分の心のうちにある欲動の在り方を目に見えるかたちで示したもの」だという。だから、人は地獄に惹かれるのだ。
地獄に暴力が溢れているのは分かる。だが、エロスと聞いても、いまいちピンと来ない方もいるかもしれない。
例えばひとつの地獄絵を紹介すると、黒縄地獄の責め苦の様子を描いた「十王地獄図」には、白い肌をした裸身の女性亡者に、雄々しい鬼の獄卒が暴力をふるう様が描かれている。恐ろしい光景であるにもかかわらず、鑑賞者はこの絵から目が離せなくなってしまう。それはなぜだろう。
男性の鑑賞者は獄卒の鬼に感情移入し、自らが暴力をふるう主体としてサディスティックな視点を持つこともできる。また、女性の鑑賞者は亡者に自己投影してマゾヒスティックな欲望を意識することができるから――だという。
著者曰く、
“他界での苦痛と恥辱は、反転して、現世における自身の隠された不安ないし欲望を表徴する。地獄とは、現実の日常生活を逸脱した、無意識下にある暴力とエロスの世界である。このことが、この場面にはとても明快に示されているものとみなされるだろう。”
昭和期の歌人・劇作家であった寺山修司も、地獄絵に性的なものを見出したひとりだ。『誰か故郷を想はざる』という著書の中で、目撃してしまった両親の性交と、お寺で観た地獄絵、空襲の3つが、自身の少年時代の「三大地獄」だったのではないか、と綴っている。地獄絵が、性交(エロス)と空襲(暴力)と並列して挙げられている点は、見過ごせないポイントだろう。
いかがだろうか。「私たちは皆平等に、生まれながらにして、地獄に堕ちる資質を与えられている」の意味が、少しお分かりいただけただろうか。本書では、古代から近世の数多くの地獄絵や、その地獄絵を鑑賞してきた人々の「まなざし」を紹介して、地獄に惹かれる人間の心理を論証している。
もし、まだ自分には地獄に堕ちる資質なんて少しもないと思うのならば、ぜひ本書を開いてほしい。思いも寄らなかった自分の欲動に気づき、驚き、そしてその自分の「暗部」を直視することになるだろう。そこで初めて、「本当の自分」が分かるかもしれないのだ。
文=雨野裾