ダークヒロイン登場! 思わず姉のことを言いかける妹だったが…/ 松岡圭祐『高校事変 II』⑦
公開日:2019/9/13
超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第2弾! 新たな場所で高校生活を送るダークヒロイン・優莉結衣が日本社会の「闇」と再び対峙する…!
7
ベッドに潜っても、理恵は一睡もできなかった。そのうち夜が明けた。朝食の時間を迎えた。
姉とふたりで過ごす部屋は手狭だと、いつも思ってきた。ひたすら窮屈だった。なのにひとりきりになると、ただ寂しさばかりが募る。先に着替えをすませ、理恵を起こしてくれる姉の声が、けさはきこえない。物憂げな気分のまま、二段ベッドの下段から抜けだし、江戸川南中のセーラー服を身にまとう。
階段を下りていき、テーブルに近づいた。小学生の三人が味噌汁をすすっている。小三と小五の男の子がふたり、小六の女の子がひとり。理恵にとって、特に仲がいいわけでも、悪いわけでもない。家族とはちがう。ただ一緒に暮らしている、それだけの関係にすぎない。
理恵はキッチンへと向かった。谷川裕子がマスクにエプロン姿で、鮭と昆布を複数の皿に盛りつけている。味噌汁の入った椀が、うっすらと湯気を立てていた。
裕子の眠たげな目が見かえした。「おはよう」
「おはようございます」理恵は応じた。「お姉ちゃんは……」
「まだなんの連絡もないの」裕子は皿と椀を手渡してきた。「あまり心配しすぎちゃだめよ。学校へはちゃんと行ってね」
当惑とともに食事を受けとる。裕子は黙って背を向けた。話しかけられるのを拒んでいるかのようだ。理恵は食卓に向かうしかなかった。
席に着くと、向かいに座った小六の田辺陽菜が、仏頂面できいてきた。「なにかあった?」
理恵は首を横に振った。「なにも」
「泣いてたでしょ。声きこえたもん」
「知らない」理恵は食事に目をおとした。「いただきます」
男の子ふたりは互いの鮭を箸でつつきあってふざけていた。ところが階段に足音がすると、揃ってびくつく反応をしめした。
一瞬、理恵は息を呑んだ。姉かと思ったからだ。だがすぐに、共通するのは制服だけだとわかった。
まっすぐ顔を見つめたのは、おそらくこれが初めてだった。葛飾東高校のブレザーとスカートが、華奢な身体つきにぴたりと合っている。長く伸ばした黒髪に縁どられた色白の小顔に、つぶらな瞳とすっきり通った鼻筋、薄い唇が適切に配置されていた。細い顎は、首に巻いたエンジいろのマフラーに埋もれがちになっている。
食卓は静まりかえった。男の子たちが緊張したように身を硬くし、ひたすら黙りこんでいる。むろん優莉結衣を意識してのことだろう。
結衣のほうは無表情のまま、洗面所へと消えていった。
しばらくそちらを眺めていたからか、陽菜が妙な顔を理恵に向けてきた。「ガン飛ばさないほうがいいんじゃない?」
「え?」理恵は面食らった。「なに?」
「あの人。半グレとかのリーダーの娘だし」
「優莉さんが? ああ……」
どこかできいた苗字だと思ったが、ようやく思いあたった。優莉匡太という名なら、テレビのニュース特番でたびたび目にする。中一の理恵にとっては過去の報道にすぎなかったが、よほど凶悪な事件を引き起こした団体の中心人物だったようだ。
小五の藪下颯太が、箸の先に切り身をつまみとりながらいった。「関わったらぶっ殺される」
すると小三の山本璋も同調した。「武蔵小杉高校もあいつが滅ぼした」
裕子が憤った顔で近づいてきた。「ふたりとも、無責任な発言をするなって何度もいったでしょ」
颯太と璋は揃ってばつの悪そうな顔になった。
「いい?」裕子の小言はつづいた。「颯太のお父さんがしたことで、颯太が責められたらどういう気分になる? 璋のお母さんが警察に捕まったとして、璋も犯罪者呼ばわりされたらどう思うの。人の痛みがわからない子は、うちに置いとけないから」
理恵のなかに疑問が生じた。「武蔵小杉高校って、このあいだ大騒ぎになった……」
立ち去りかけていた裕子が振りかえり、理恵に猛然と詰め寄ってきた。血相を変えながらも、声をひそめていった。「ニュース動画ならスマホで観れるでしょ。世間はいろいろ噂してるけど、まったくのデマ。優莉さんは関係なかったって警察も発表してる。色眼鏡で見ちゃだめ。わかった?」
気圧されて思わず身を退いた。理恵はあわてながらうなずいた。
颯太は不満顔だった。「けどさ。なんか愛想ねえじゃん」
裕子がまた噛みついた。「年上のお姉さんはみんな、颯太に愛想見せなきゃいけないの? 優莉さんは不眠に苦しんで、いまでもときどき精神科に通ってて、睡眠薬を処方してもらってる。朝方ぶっきらぼうに思えるのはそのせいでしょ」
くだんの結衣が洗面所から姿を現した。食卓には一瞥もくれず、さっさと玄関へと向かう。ランウェイを歩くモデルに似ていた。結衣がぼそりといった。「いってきます」
「あ」裕子がひきつった笑顔とともに、伸びあがって声をかけた。「いってらっしゃい。気をつけてね」
そらぞらしさに虫唾が走る。なんだろう、この居心地の悪さは。理恵は不信感を抱いた。まだ颯太と璋のほうがすなおに感じられる。美人を意識しすぎて悪口しかいえない、男の子特有の反応だとわかるからだ。裕子の態度はあきらかに異なる。ゆうべの大人たち全員がそうだった。優莉結衣の名がでて以降、腫れ物に触るような言動ばかりに終始している。過剰なまでの恐れが垣間見える。じつは内心、優莉結衣を疑っているのは、職員らのほうではないのか。
結衣が外に消えていった。しばらく時間がすぎた。じっとしてはいられない、そんな心境におちいった。理恵は立ちあがり、玄関へと向かった。靴をはき、ドアを開け放った。
冬の朝は遅い。まだ赤みを帯びた脆い光が、狭く入り組んだ路地をおぼろに照らすにすぎない。冷えきった微風が裸木の枝を揺らす。結衣の後ろ姿はすぐそこにあった。理恵は追いかけながら声をかけた。「あのう」
結衣が足をとめ振りかえった。ぶっきらぼうに理恵を見つめてくる。他人行儀な目つきは、道端で会った猫のようだった。
緊張に足がすくむ。理恵は声を絞りだした。「お姉ちゃんのこと知ってますか」
「誰の?」
「わたしのです」
「知るわけない」
それだけつぶやくと、結衣は背を向け、ぶらりと歩き去った。
呼びとめようとしたものの、もう声がでなかった。なにを話すべきかもわからない。ただ姉に近い存在と信じ、すがりたかっただけかもしれない。
朝靄のなかにひとりたたずむ。自分が嫌になる。優莉結衣に問いかけて、なにか得られると本気で思っていたのか。彼女を疑ってはいけない、そう大人から釘を刺されたばかりなのに。
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人