露わにされたヘアの衝撃!! 19世紀から20世紀前半まで裸婦像の魅力を紹介

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/16

『ヌードの絵画史 「裸の芸術」黄金期に描かれた女性たち』(春燈社/辰巳出版)

 開催から僅か3日間で中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」のニュースが流れたとき、どんな不謹慎な作品が展示されたのかと思い調べてみたら、エロ作品が無いと知って興味を失った。公権力による検閲を問題にするのなら、裸の芸術は外せないだろうに。明治期に英語の「art」が「芸術」と翻訳され、同時に西洋の裸体画は芸術か猥褻かという論争が起きたさい、当時の画家たちは自分らの作品を崇高な芸術と主張するために、江戸時代に描かれた春画を古い価値観の象徴として猥褻だと貶めたのだ。それが平成になってから、大英博物館で春画展が開催されたという歴史がある。せっかくなので、表現の不自由について勉強するべく、『ヌードの絵画史 「裸の芸術」黄金期に描かれた女性たち』(春燈社/辰巳出版)を入手してみた。決して、邪な気持ちではない。

 古代ギリシャにおいて「ヴィーナス像」が作られていたように、西洋芸術では「人間の体を表現することは、きわめて重要なこと」だったそうだ。そして本書は、「古代の伝統美へと還れ」という“新古典主義”を掲げて始まった19世紀から20世紀のヌード絵画について主に解説しており、「ヌード画は、何よりも美を追求するものであると同時に、同時代の政治権力や社会を批判する武器にもなっていった」といった背景を知るのが面白く、なんだか自分の頭が良くなったかのように錯覚してしまう。

 たとえばゴヤが描いた『裸のマハ』は、豊満で愛嬌のある全裸の女性が横たわっているだけであるが、「スペイン絵画屈指の裸婦像」と称されている。というのも、当時のキリスト教圏の国々では政治的にも世間的にも裸体表現に厳しく、ルノワールなどが『狩りをするディアナ』を描いているように神話を主題にすることで、表現されているのは神や妖精であって人間ではないといった理屈を駆使して規制を躱していた。だから、そんな時代にあって描かれた『裸のマハ』は、「西洋美術史上、初めて生身の女性を描いたヌード絵画として、また、初めて陰毛が描かれた絵画として後世に名を残している」のだ。ただしゴヤは、この作品で異端審問所に告訴されるという事態になってしまう。

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 女性器をクローズアップして描いた、クールベの代表作『世界の起源』は、現代の視点で観ても衝撃的だ。乳房は油彩特有の荒いタッチなのに対して、女性器から臀部にかけては陰毛の一本一本の流れが分かるほど緻密に描かれている。その約10年前に描かれた『画家のアトリエ』という作品は、風景画を描いている画家の後ろからモデルの裸婦が覗いているという面白いテーマで、パリの万国博覧会に出品しようとするも、あえなく落選。するとクールベは、万博会場の真向かいの場所を借りて落選した自分の作品を展示したそうだ。

 ところで、葛飾北斎が描いた春画に、裸の女性が2匹のタコに捕らえられて性的快楽を受けているさまを描いた『蛸と海女』というのがあって、日本人の性的倒錯に歴史ありと感心したものだが、アンリ・ルソーの『美女と野獣』も、なかなかの倒錯ぶりである。どう観ても、犬らしき獣と裸の女性が性交しているようにしか見えない。先のクールベにしても、野外で靴下を履く裸の女性を描いた『白い靴下』では、わざわざ足裏をこちらに向けており、いわゆる足フェチを思わせる。変態に国境無しと思うと、なんだか世界の誰とでも仲良くなれそうな気がするのは気のせいか。

 変態キャラに独特の魅力がある細野不二彦が、芸術をテーマに描いた漫画作品『ギャラリーフェイク』の一編「おそるべきドガ」で、当時の風刺画を得意としたドガの観察眼と表現力について語られていたように、本書では入浴後の女性が裸のまま横たわる『入浴後』や『足を拭く女性』といった作品が、「もっとも身近なヌードのモチーフ」として紹介されている。これらも当時は、「浴槽はまだ贅沢品で、庶民たちはみな室内で盥(たらい)や洗面器を使って体を洗っていた」といった時代背景を考えると、猥褻とは異なるアカデミックな面を読み取ることができるが、所詮そんなモノは錯覚であろうとも思う。タブーなモノは、それだけで魅力的なのだ。

文=清水銀嶺