あなたはどう生きたい? どう死にたい? スイスで安楽死した日本人女性の姿から考える安楽死問題

社会

公開日:2019/10/2

『安楽死を遂げた日本人』(宮下洋一/小学館)

 自分や家族が死を覚悟しなければいけなくなったとき、あなたはどのような最期を選択するだろうか。

『安楽死を遂げた日本人』(宮下洋一/小学館)は、最期のその瞬間まで自分らしく生き、人生の終わりを後悔なく迎えるためにはどうすればよいのかを深く考えさせられる1冊だ。ある日本人女性が寝たきりになる将来を危惧し安楽死を決断するに至るまでの過程や心情、それに寄り添いながら葛藤する家族や周囲の人々の思い、さらには、命を閉じる最期の瞬間までを鮮明に綴った、かつてないような衝撃的で生きることに深く迫った貴重な作品となっている。

 著者は欧米を軸に活躍するジャーナリスト・宮下洋一氏。「講談社ノンフィクション賞」の受賞作『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一/小学館)に続く、“安楽死”をテーマにしたノンフィクションだ。緩和ケアをすすめる安楽死反対派の医師や自殺ほう助団体の代表、別の角度から安楽死を取材したNHKのディレクターなどとも交流を重ね、それぞれの見解を紹介しながら中立的立場で安楽死を望む3人の日本人を取材している。安楽死を望む当人とその家族が、ときに葛藤しながら死に向かう姿からは、“生”や“死”について、さまざまなことを考えさせられることだろう。

advertisement

 本書のタイトルにもなっている安楽死を遂げた小島ミナさんは難病指定の多系統萎縮症を患い、将来寝たきりになることを宣告された女性だ。通常であれば、この先もまだ長い人生が待っているはずの48歳という若さで難病宣告を受けた。そんな彼女が選んだ道は、“安楽死”。最後まで自分らしくありたいと、安楽死が認められていない日本を飛び出し、遠いスイスで最期を遂げたのだ。

 そもそも安楽死とは「患者本人の自発的意思に基づく要求で、意図的に生命を絶ったり、短縮したりする行為」を指すという。医師が薬物を投与して命を絶つ「積極的安楽死」と、自らの手で医師から与えられた致死薬を投与し命を絶つ「自殺幇助(ほうじょ)」の主に2つの方法があるが、どちらも現在の日本では認められていない。

 安楽死の法制化にはあらゆるリスクがあることは本書を読めば理解できるだろう。患者本人だけではなく、遺される家族や命を絶つ場に居合わせる医師も関わるため、非常に複雑な問題だ。

 しかし、病などにより逃れられない苦しみを背負っている人にとっては、安楽死が唯一の救いの道となることもある。実際に死がリアルに自分のものとなった人にしかわからない苦悩が、安楽死によって救われる場合があるのも事実だ。

 小島ミナさんは宣告された余命が短かったわけではない。しかし、だからこそ苦しんだ。これから、どんどん体が不自由になり、やがては全身が動かなくなって大脳を除くすべての臓器の機能が止まってしまう将来に恐怖を感じたという。排泄から何まで人の世話を受け、ただ天井を見つめ、唯一正常な大脳で何を考えながら生き続けなくてはいけないのかと。

 ある雑誌の取材で彼女はこう言っている。

「…私のような状態になった人間にあなたはどんな言葉をかけますか? 『がんばって生きて』とも『死んでくれ』とも言えないでしょう。かける言葉がないと思うんです。そういう人間がどう生きていけばいいのか」

 さらに、ある日のブログでは

「苦しくても、命があればいいのでしょうか」

 とも問いかけている。

 苦しみの終わりが見えないまま生き続けなければいけない人がいる。一方で、苦しみに終わりが見えれば、それは生きる希望にもなるようだ。実際に、小島ミナさんはブログで、安楽死を希望してはいるものの「『生きる』ことに対して決して諦めているわけではないのです」と打ち明けている。また、取材を受けた別の男性は「死と直面することで生きていることを実感する」と述べているのだ。安楽死を希望する人々にとって、この方法は必ずしも悲観的な死に方ではないし、死の期限を決めることで生きようとしていることを本書で気付かされる。

 奇跡のなかで授かった命の限りまで生き抜いてこそ、素晴らしい人生なのか。たとえ寿命を全うできなくても、自分なりに精一杯人生を歩むことこそが“生きる”ことなのか。

 死に向き合うとき、人にはさまざまな事情がある。死ぬ権利や死に方を選ぶ自由は、思いのほか簡単に手に入れることは難しい。だからこそ、後悔のない人生を送るために、ぜひ本書を機に自身や家族の生き方をあらためて考えてみてほしい。

文=Chika Samon