暴走する趣味嗜好…知的障害者更生施設で巻き起こる狂気――人気ミステリー作家が描く問題作!
公開日:2019/11/1
人には趣味嗜好がある。迷惑をかけない範囲で楽しむ間は、はたから見て微笑ましく、尊重すべき個性でもある。しかしそれが好ましくない範囲まで広がれば、他人に迷惑をかけることになり、当人も社会で生きづらさを感じる。
そして趣味嗜好が“許されない範囲”まで広がったとき――暴走する感情は誰にも止められなくなり、やがて狂気を帯びるようになる。
『臨床真理』(柚月裕子/KADOKAWA)は、2009年に刊行された人気ミステリー作家・柚月裕子氏のデビュー作だ。「佐方貞人」シリーズ、「孤狼の血」シリーズはすべてベストセラー。2019年に文庫化された『慈雨』は20万部を超える大ヒット。まさしく柚月氏の作品は、ミステリー好きならば絶対に押さえるべき、というより押さえないと恥ずかしい、ミステリー小説界の第一線級にあたる。
本作のあらすじはこうだ。知的障害者更生施設に入所していた16歳の少女、水野彩が自殺で死んでしまう。しかし同じく入所していた青年、藤木司は妹のように親しくした彩の死を「殺人だ!」と主張する。
強制的に医療機関に入院させられた司は、精神的なショックから立ち直るため、臨床心理士のカウンセリングを受けることになった。その担当は佐久間美帆。
美帆は何度かカウンセリングを行ううち、司は知的障害ではなく、他人の発言の真偽を見抜く「共感覚」の持ち主であることを知る。それが理由でひどく辛い過去を背負い、自身を知的障害者と偽って生きてきたのだ。
さらに美帆は警察官の友人に助けてもらいながら、司とともに彩の死の不審な点を見つけることになる。徐々に絆を深めながら、彩の死に隠された真実に近づく美帆と司。そして物語の終盤で暴かれるのは…幼気な少女の悲鳴と人間の狂気だった。
本作を読み通して恐ろしく感じるのは、抑えきれない狂気を隠し持つ人間が、陽の当たる社会で“まっとうな人間”に見えるように生きていることだ。あくまでフィクションだが、これに似た現象は日本社会のどこかで起きているに違いない。
私たちは生まれた頃から、目の前の物事や経験を無意識に「好き」と「嫌い」に分けて生きてきた。できるだけ嫌いなものを避けて、好きなもので日常をいっぱいにするべく人生を頑張ってきた。たぶんこれからもそうだろう。
しかしその好きなものが、人間として決して許されるものでなかったとき、その人はどうするだろう? 諦められたら当人はラッキーだ。個性の範囲で揺れる一般人として社会に溶けこめる。
けれども諦められなかったときは? それをひっそりと隠れて楽しむようになったとき、どす黒い蜜の味はひどく甘美になるのではないか。
本作の最後で描かれる、犯人と相まみえるシーンは、背筋の凍る狂気を感じた。これが社会のどこかで起きているという事実に頭がクラクラして、本を握りつぶすほど胃がムカムカした。圧倒的な情景描写と緊迫感だ。そしてほんの少しだけ、ごくわずかに、犯人に対して「どうにか社会でまっとうな人間として生きる方法はなかったのか?」と同情した。
一方で、他人から理解されにくい共感覚の持ち主である司が、自身を知的障害者と偽って生きる決断をした心理描写にも胸をしめつけられる。今の時代は、多くの人にとって生きづらいものだ。本人の意思に関係なく“普通”というレールから外れた人間は、社会でどう生きていくべきなのだろう。
本作は人気ミステリー作家・柚月裕子のデビュー作であり、問題作でもある。これほど読者の心をつかんで離さない作品には、なかなか出会えないだろう。
文=いのうえゆきひろ