上司は部下に「100時間以上は残業をつけないでくれ!」と頼むだけ?『残業禁止』③
更新日:2019/11/3
残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?
今は話がややこしくなった。
「砂場」
カメラのデータをパソコンに移し、使うものを選ぶ作業に没頭している砂場に成瀬は言った。
「もうじきイエローカードが来る時分かな」
「かもしれませんね」
「気をつけてくれよな。申し訳ないんだけど」
「分かってますって」
面倒くさそうにこちらを向いて砂場が答え、またパソコンに戻る。
月の下旬、早い時は中旬の終わりくらいになると、成瀬のところに労務部からメールが届き始める。今月は正月休みがあったが、さていつまで持ちこたえるか。
何となく砂場に声をかけたが、誰でもよかったのである。砂場、浅田、大田には共通の話で、メールの文面も固有名詞を除けばまったく同じだ。
〈チェリーホテル・横浜ベイサイド新築現場工事事務所に配属されている○○さんの勤務状況についてお知らせします。○○さんの今月の残業時間が九十時間に達しました。労使協定により、残業は月百時間までとなっています。なお厚生労働省は、一カ月あたり八十時間を超える残業が過労死につながる怖れがあるという見解を示しています。貴職におかれましては、○○さんの健康のため、残業時間をさらに減らすべく配慮されますようお願いします。〉
本人にも同趣旨のメールが来る。一昨年から始まったシステムだ。
同時に、青天井でつけてよかった残業が百時間までしか認められなくなった。申告しても残業代は出ないばかりかマイナス考課になり、管理職の責任も問われる。
残業時間に関する労使協定は、労働基準法第36条に規定されていることから36(サブロク)協定と呼ばれる。ヤマジュウ建設にはそれまで、36協定そのものがなかった。上場企業が違法行為をしていたわけだが、珍しくもない話だった。
厚生労働省も基本的には放置していた。時々過労死が報道されるなどして一時的に騒ぎになっても、しゃかりきに残業規制に乗り出しはしなかった。
様子が違ってきたのは四年前、超大手広告代理店に勤めていた東大卒の女性新入社員が、仕事の忙しさを苦に自殺してからだ。
ちょうど政府は、専門性の高い研究者など一部の職種について残業規制を緩めようとしていた。そちらを進めるために、ほかの職種には逆に厳しくしてみせなければならなかったのではないか。
ワークライフバランスだとか男の家事参加だとか、ひいては少子化対策につながるなんて話までもっともらしく持ち出されたけれど、一番の理由ではないように成瀬は思っている。
いずれにしても、残業規制の一部緩和と厳格化をセットにした「働き方改革」が急激に押し進められた。
成瀬も勉強せざるを得なくなってやっと知ったのだけれど、これまでの規制が抜け道だらけだったのは確かだ。協定を結ぶとしても、繁忙期の例外規定などを使えば事実上残業の上限はなかった。去年成立し、この四月に施行された新しい労働基準法では、そこに月平均八十時間以内、最大でも百時間未満という縛りがかかったのだからまさに大改革と言っていい。
しかも役所は、法律が整うはるか前から企業への締め付けを強めた。建設業は適用まで五年の猶予も設けられたのだが、役所の顔色を窺う業界団体が自主規制を打ち出し、ヤマジュウも格好をつけないわけにいかなくなった。
しかし月百時間なんて、休日出勤だけですぐ天井が見えてしまう。百二、三十が当たり前で、このごろでは百五十、二百のこともあった。「配慮」と言われていったいどうすればいいのか。
会社だって分からないからこんな書き方になるのだろう。管理職が集められることもしょっちゅうだが、聴かされるのは「業務の効率化、合理化」みたいなお題目ばかりでまるで参考にならない。仕事を減らせないなら働くしかない。所長連中はみんなそう思っている。部下たちも同じだと思う。現場が回らなくなったら真っ先に突き上げられるのは彼らなのだ。
結局できるのは、「百時間以上は残業をつけないでくれ」と部下に頼むことだけだ。彼らもどうにもならないのは分かってくれている。それでもタダ働きを命じるのは心が痛む。
蛍光灯に白々と照らされた事務室は、深い海の底にいるような錯覚を起こさせる。静けさの中、時間だけが容赦なく流れてゆく。
一日中吹いていた風が窓を軽く揺らした。成瀬が外に目をやると、仮囲いの上に伸びるビル群の電気ももうところどころしか残っていなかった。パソコン画面の右下に表示された数字を見る。九時半を回っていた。
「今日はこんなところにしとこう」
成瀬は声に出して言った。
「ちょっとだけそのへん行こうや」
「いいですね」
どんよりした表情に生気をよみがえらせて応じたのは大田である。所長が言いだすのを待っていたのかも知れない。
「あと五分できりつけますから」
OK、とつぶやいて成瀬は浅田、砂場に「君らもどうだ」と水を向けた。
「ご免なさい。私はまだしばらくかかりそうです」
「自分も──」
「働き者だなあ」
成瀬はおどけた口調で返した。今時飲みの強要など流行らない。下手をすればパワハラと騒がれる。ありがたいことに浅田も砂場もそういうタイプではないが、掛け値なしで余裕がないのだろう。
八分後に、大田の準備ができた。
「じゃあな。適当に切り上げろよ」
言い残して成瀬たちが向かったのは、大通り沿いのチェーン居酒屋だった。これまでに何度か来ている。
成瀬は十五年ほど前にもこの近くの現場で働いたことがあり、馴染みだった串焼き屋を再訪するのを楽しみにしていたら、残念ながら店がもうなかった。
チェーン居酒屋は取り立てて何かがいいわけでもないけれど、値段を含めて安心なので「あそこにしとこうか」となってしまう。知らない店を開拓するエネルギーが薄れているのだろう。そんなところにも歳は出る。
店の混雑は明らかにピークを過ぎていて、サラリーマンより若者グループが目立った。注文を取りにきた店員に、成瀬は「生」と告げた。大田も揃えるかと思ったら少し考えて焼酎のお湯割りを頼んだ。
「歩いてるうちに冷えちゃって」
弁解するように大田は言った。
「風邪ひくなよ。疲れてると抵抗力が落ちるからな」
ジョッキを湯気の上がるグラスと軽く触れ合わせる。アルコールが身体にしみわたった。