63歳トランスジェンダー、老いと金と男に悩み抜き狂乱の旅へ――赤松利市『犬』

文芸・カルチャー

公開日:2019/11/3

『犬』(赤松利市/徳間書店)

「犬」という単語に、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろう? 赤松利市さんの『犬』(徳間書店)を読むと、今までのあなたの「犬」のイメージは大きく変わることになるかもしれない。

 2018年、『藻屑蟹』(徳間書店)で第1回大藪春彦新人賞を受賞した赤松さんは、暴力や金の世界を巧みに描く、鬼才の作家。過去には、実話に基づいた私小説『ボダ子』(新潮社)で自身の壮絶な過去を公表。経験してきた人生の濃さに目頭が熱くなり、作家という枠を超えて、赤松利市という人物に興味が湧く作品でもある。

 また、今年7月に発刊された『純子』(双葉社)も強烈なインパクトを残す小説だ。下肥汲みの家に生まれた純子という美少女を主人公にして繰り広げられる、“臭う”ファンタジーに、読者はド肝を抜かれた。

advertisement

 赤松さんは、これまでに見たことがない世界を本の中に次々と生み出す。この『犬』もそうだ。まず、目に飛び込んでくるのは帯に記された「嬲り、嬲られ、愛に死ね!」という暴力的なフレーズ。今回、鬼才が見せてくれるのは狂乱の疾走劇だ。

■老後資金1000万をめぐる、愛と暴力の旅

 主人公の桜(63歳)は大阪でニューハーフ店「さくら」を営んでいる、トランスジェンダー。同じトランスジェンダーで自分の体を労わってくれる沙希を雇い、慎ましく平和な日常を過ごしていた。

 だが、最近は「老い」に悩んでいる。昔のように体の自由がきかなくなったことを痛感するたび、「老い」が追いかけてくる気がして、老後の不安が頭をよぎるようになったのだ。

 そんなある日、20年以上前に自分を棄てた男・安藤勝が突然、店にやってくる。安藤はかつて、エンゲージリング代わりにと、桜に首輪を買い与えた人物。桜はその時の首輪を今でも身に着けている。

 安藤は桜と別れた後に不動産会社の一人娘と結婚したが、現在は離婚し、FXで生計を立てているという。なぜ今さら…、そう思いながらも、桜の頭には安藤と愛し合った日々が蘇り、首輪が熱を持ち始めたように感じた。

 それ以降、安藤はたびたび桜の家にやってくるようになり、老後の資金として貯めた1000万円を自分に預けてFX投資してみないかと囁く。その金を失えば、やがて迫っている「老い」に足をとられ、ボロボロにされてしまう。だが、安藤との繋がりが切れることは、それ以上に怖い。悲鳴を上げるほど乱暴で身勝手な安藤とのセックスも、桜にしてみれば女でいられる瞬間。まるで昔に戻ったような気持ちになり、絶頂を迎える…。

 安藤という存在が老いの不安を払拭してくれた。そこで、桜は迷った挙句、1000万円を託すことを決意するが、その先には予想だにしない結末が――。

 あらすじをこう記すと、勘のいい読者は“悪い男に騙されて落ちていくステレオタイプの女性”が目に浮かぶかもしれない。だが、赤松ワールドには、それ以上の絶望と狂気がある。虎の子の1000万円をめぐり、“愛と暴力の旅”が繰り広げられ、その旅で桜は自分自身や愛を知ることになる。

 予想しなかったラストシーンを噛みしめた後、あなたはもう一度“秀逸な帯”を見直し、そこにこっそり込められた意味に気づき、目頭が熱くなるはずだ。

 生きている限り、私たちは「老い」から逃れることができない。「年齢はただの数字」と言い聞かせても、体に不調を感じることがあると嫌でも「以前より老いた自分」を自覚する。本作には、そんな「老い」への恐怖も描かれている。

 筆者の周りでも、年齢を重ねて、生涯ずっとひとりで生きるのは不安だから、と婚活に励む友人が多くなってきた。私たちは人生の半ばにも満たないような年齢から、「老い」に追いかけられつつ生き方を模索している。もしかしたら、死ぬことよりも、生きながらえなければならないことの恐怖から逃れようとしているのかもしれない。

 そんな感情を反映しているかのような本作は、「自分の人生の終え方」について考えたい時にも手に取りたい1冊。桜の姿は、もしかしたら将来の私かもしれない。そう思うと、“誰かの飼い犬”ではない生き方を考えたくなるのだ。

文=古川諭香