太宰治が芥川龍之介を好きすぎてやった恥ずかしいこと/『文豪どうかしてる逸話集』①
公開日:2019/11/9
芥川龍之介が大好きすぎる太宰治。ひたすら龍之介の名前を書き連ねた恥ずかしいノートを、後年公開される。
学生時代の太宰にとって、芥川龍之介は超アイドル的存在であった。
太宰が使っていたノートには、龍之介の名前を書き連ねる以外に似顔絵なんかも描かれていて、とにかく龍之介が大好き。
芥川龍之介が大好きすぎて、龍之介ポーズで撮った写真まで残している太宰だったが、結局太宰が芥川龍之介に直接会うことは叶わなかった。
太宰が青森市での芥川龍之介の講演を聴きに行ったわずか3カ月後、太宰が18歳の時に、芥川龍之介は35歳にして、睡眠薬で自殺してしまったためである。
太宰にとってヒーローであり、文学上の師匠でもあった芥川龍之介の死。
太宰はショックのあまり部屋に引きこもり、心配する友人に「作家の死とはこうあるべきかもしれない」と語り、その後何度も自殺未遂を繰り返すことになったのでした。
芥川賞がどうしても欲しいのに、もらえない太宰治。選考委員の川端康成に、「小鳥と歌い、舞踏を踊るのがそんなに高尚か。刺す」
1935年、25歳の時に書いた短編『逆行』で第1回芥川賞の候補に選ばれた太宰。選考委員だった作家の佐藤春夫が「なんかおもしろい奴がいる」と太宰の才能に注目し、推薦したのがきっかけでした。
芥川龍之介が大好きすぎてどうしても芥川賞が欲しかった太宰は、このノミネートに大喜び。大喜びしすぎて「命うれしくといふ言葉がふいと浮うかんで来ました」「うつかり気をゆるめたらバンザイが口から出さうで、たまらないのです」と、抑え切れない素直な喜びの気持ちを綴った手紙を佐藤に送ります。
しかし、ここで佐藤と同じく選考委員だった川端康成が物申します。「才能は感じるけど……。太宰は私生活に問題がある」
当時の太宰は自殺未遂を起こしたり、薬物中毒だったりとなにかと世間を騒がせていたため、この川端の言葉に他の選考委員たちも「んー、たしかにそうかも」と納得。
結局芥川賞を獲らせてもらえないうえに、人格否定までされて怒り狂う太宰は、『川端康成へ』と題して「自分の周りの友人はみんな面白いと言ってくれてるし!」「井伏鱒二先生も面白かったって言ってるし!」「川端康成は大悪党!」「小鳥と歌い、舞踏を踊るのがそんなに高尚か。刺す」とひたすら反論。
その後の芥川賞でも懲りずに賞を欲しがり続ける太宰は、今度は佐藤春夫に手紙を送りつける。その長さはなんと全長4メートルにもおよび「芥川賞くださいお願いします! 先生お願いします! 私の命は先生にかかってます、お願いします!」とひたすら芥川賞を懇願する内容。
しかし、その甲斐むなしく作品は候補にすら残らず。これに対して太宰は「佐藤春夫! 裏切者!」と、逆恨み。
短編『創生記』では「佐藤先生。『お前の作品が賞獲るの、ほぼ決まってるよ』って言ってくれてましたよね~?」と、恨みを込めて会話の内容を暴露します。
対して佐藤は、『芥川賞―憤怒こそ愛の極点』に「そんなこと言ってないし、妄想やめて……」と反論。お互い直接言えばいいのに、いちいち書き物にしてしまうふたり。
その後も本を出しては川端康成に「これ読んでください。そして芥川賞ください」と手紙を送りつけたりと、ひたすらロビー活動を続けた太宰でしたが、結局1度も芥川賞を獲ることはできなかったのでした。