菊池寛は夜遊びを暴露され、怒って出版社を襲撃/『文豪どうかしてる逸話集』⑦

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/15

夜遊びを暴露された菊池寛、怒って中央公論社を襲撃する。

 今も昔も、日本を代表する夜の街といえば銀座。これがいつから始まったのかというと、今から約100年前、銀座八丁目にできた「カフェー・プランタン」というお店がきっかけだった。フランスのパリでは、画家や作家などが「カフェー」に集い、日夜、芸術談義をしている、という話を聞いた松山省三という画家が、「東京にもそういった場所を作りたい!」と、銀座に「カフェー・プランタン」をオープンしたのであった。

 カフェーといっても、今でいう「喫茶店」ではなく、「女給」と呼ばれた女性たちがお酒の相手をしてくれるお店で、永井荷風、森鷗外、谷崎潤一郎といった名だたる文豪たちもこぞって利用していた。

 菊池も銀座のカフェーをこよなく愛したひとりで、毎晩のように派手に遊んで、女給たちに気前よくチップをはずむことで有名だった。

 そしてある時、「婦人公論」に『女給』という作品が掲載される。

 この小説には銀座のカフェーで働く女給・小夜子を口説く「太った文壇の大御所」と表現される男が登場するが、実はこの「太った文壇の大御所」とは、明らかに菊池をモデルにしたものであった。

 菊池をモデルにした作家が、女給・小夜子をあの手この手で口説く『女給』は大いに話題になったが、菊池は「俺はこんな口説き方はしてない! カフェーには行ってるけど!」と激怒し、中央公論社に抗議文を送る。

 すると今度は、その抗議文が「僕と小夜子の関係」とタイトルまでつけて雑誌に掲載される。

 菊池はさらに怒り、ひとりで中央公論社へ乗り込んで編集長を殴ってしまい、周囲の者に取り押さえられた。

 結局この「中央公論社襲撃事件」のおかげで『女給』はベストセラーとなり、翌年には映画化され、主題歌「女給の唄」も大ヒットしてしまったのでした。

菊池寛、第1回直木賞作家の賞金をほとんど使い切る。

 直木三十五と芥川龍之介という才能溢れた友人を相次いで亡くした菊池は、彼らの名前を後世に残すためにと、直木賞と芥川賞を作った。

 受賞者に贈る賞品をなににしようかと悩んだ結果、時計と賞金500円(当時の平均月収は約60円)ということに決まったが、賞品の時計は毎度ギリギリに用意していたので、ロンジンだったりオメガだったりロレックスだったりと、その時に手に入るものが選ばれるため毎回バラバラだった。戦時中は時計が手に入らず、壺や硯(すずり)だったこともあった。

 それでも、お金のない若手作家には大変ありがたいことだったが、第1回直木賞を受賞した川口松太郎が授賞式のあとに菊池にお礼を言いに行くと、「じゃあその賞金で、みんなで飲みに行こう!」と言われ、断れずにいるうちに、友人やお世話になった人、関係者とどんどん人が増えていった。最終的に100人くらいにおごる羽目になり、賞金500円のうち400円を使い切られてしまった。

<第8回は川端康成です!>