「リアルな人生に、異世界への転生などない。」不登校の高校生・陽翔は住みこみの矯正施設へ/ 松岡圭祐『高校事変 Ⅲ』②

文芸・カルチャー

公開日:2019/11/13

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第3弾! 前代未聞のダークヒロイン・優莉結衣が、シリーズ最強の敵、戦闘能力の高い元・軍人たちを相手に大活躍する…!?

『高校事変III』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 桐谷陽翔はパイプベッドに横たわり、六畳の天井を眺めていた。

 明かりは灯さず、カーテンも閉めきっている。電源をいれっぱなしのモニターに映る、MMORPGのデモ表示が、室内のいろをしきりに変えつづける。

 物心ついてから、ずっとこの部屋にいる気がした。幼稚園に通いだしたころには、ここで寝起きしていた。ベッドと勉強机は新調したものの、レイアウトは変わっていない。そんなに変えられるはずもない。勉強机のわきにパソコン用デスクを増設して以降、部屋のなかはいっそう窮屈になった。

 家そのものが狭い。少し前まで父方の祖母が同居していた。田舎に住んでいた祖母を、父が無理やり連れてきた。母はあきらかに嫌がっていた。祖母も居心地が悪そうだった。父の自己満足だったのだろう。やがて祖母が死んで、一階の和室があいた。その後は客間になっている。

 ふだんは時刻など意識しないのに、なぜかいま卓上時計に目が向く。午前九時すぎ。赤羽南高校は一時限目の授業中だ。もっとも教室のようすは思い浮かばない。顔ぶれがわからない。二年に進級したものの、クラス替えののちは、いちども登校していなかった。

 静寂に慣れきっているせいか、階下の小さな物音にも注意を喚起される。足音がかすかにきこえたが、階段を上ってくる気配はない。母親が二階のようすをうかがっている。

 母、清美の遠慮がちな声が耳に届く。「陽翔。お客さん。大事な話があるから、学校の制服に着替えてきてって」

 陽翔は身体を起こした。昼夜問わずパジャマを着ている。ベッドから離れ、窓に近づいた。外を見下ろすと、家の前にセダンが停まっていた。

 室内に異質な空気が充満していく。高校から担任や生活指導の教師がくることはあったが、クルマが横付けされたのは初めてだった。

 クローゼットから学生服をとりだした。夏服か冬服か、しばし迷う。いったん夏がきて、秋になり、もう冬になっていた。それを思いだした。エアコンの暖房もかけっぱなしで、季節感がすっかり失われている。

 ひきこもりがすなおに着替えるとは、大人にとって理解しがたい行為だろう。母親も驚くにちがいない。誰も本心などわかってはくれない。陽翔にとって、日常を脅かす変化は、たしかに煩わしい。けれどもそれ以上に、なにかが起きるのを期待している。都合のいい思考ばかりが働くのは、俗世間といっさい関わっていないからか。そうかもしれない。現実の厳しさなど忘れて久しい。

 ブレザーを着て、陽翔は部屋をでた。階段を下りていくと、廊下で母の清美が目を丸くしていた。予想どおりの反応だった。

 清美は困惑のいろを浮かべながら、ダイニングルームを指ししめした。

 客間になった和室ではなく、食卓にふたりの男がついていた。いずれもスーツにネクタイ姿で、ひとりは中年の丸顔、もうひとりはさらに年配だった。

 年配のほうの顔には見おぼえがあった。メディアによくでている。陽翔はテレビを観ないものの、ひきこもりに関するネット記事をよく閲覧していた。たしか医者で、政府に認可された矯正施設の責任者、そんなふうに記憶している。

 ふたりが自己紹介すると、陽翔の直感が正しかったことが裏づけられた。中年男はNPO法人〝健康育児連絡会〟理事の倉橋重久。年配のほうは同団体の特別顧問で、学校法人塚越学園の学園長、角間良治だった。やはり精神科医でもあるという。

 失望が襲い、虚無に浸るしかなくなる。とうとうこんなときがきた。両親は行政に救いを求めたのだろう。自分が招いたことだ。高校生としての義務を果たしてこなかった。いつかはこうなる運命だった。

 状況はあきらめとともに受けいれるしかない。どこかふしぎな心境だった。自分はなにに失望を感じたのか。陽翔はぼんやりと考えた。見ず知らずの大人が現れ、予想すらしない希望に満ちた別次元へと導いてくれる、そんな出会いを期待したのか。ゲームかアニメ業界の偉い人が、仲間に加われと声をかけてくるのを待ち望んだのか。馬鹿げた妄想だった。きっかけも接点もないのに、なんのとりえもないひきこもりの高校生を、日常から連れだしてくれるはずがない。

 重々承知していたことだ。リアルな人生に、異世界への転生などない。

 ふたりが椅子をすすめてきた。陽翔は向かいの席に腰かけた。母の清美はキッチンで茶をいれている。もてなしを装いながら、じつは作業に逃げている、陽翔にはそう思えた。

 角間良治は、どこかほっとしたようすで、落ち着いた声を響かせた。「感心だね、陽翔君。お母さんの呼びかけに、すなおにしたがうなんて」

 陽翔はテーブルに目をおとした。ひきこもりはいずれ外に追いだされる。こどおじからニートまで、同じ運命をたどる。逆らうだけ無駄だった。

 視線をあげず、陽翔は静かにきいた。「塚越学園ってところへ、いれられるんですよね」

 沈黙があった。倉橋が咳ばらいをした。「陽翔君。きみはいま二年生だね。わかってると思うけど、このままじゃ出席日数が足りなくて、留年しなきゃならないんだ。お母さんは陽翔君を助けたいと思って、私たちに連絡を……」

 すると角間が片手をあげ、倉橋を制した。

 角間の誠実そうなまなざしが、まっすぐ陽翔を見つめてきた。「私たちはなにも、無理にひっぱっていこうとしてるんじゃないんだよ。陽翔君の意思をきかせてほしい。そのためにも、退屈かもしれないけど、これまでのことをたしかめさせてほしい。いいかな」

「はい」

「中学一年のころ、バスケ部で活躍したんだってね。クラスでは……」

「あのう」陽翔は遮った。「不登校は中三からです」

 室内が静まりかえった。気まずさが漂うのは承知のうえだった。まわりくどい会話は苦手だ。

 次は不登校になった理由をきかれるだろう。答えられない。自分でもよくわからないところがあるからだ。陰キャだったのに、陽キャグループから脱落しまいと必死でしがみつく、中一まではそんな学校生活を送っていた。でも中二から急に息苦しくなった。唐突に進路指導なるものが始まった。小学校までは、将来の夢をおおらかに語っていればよかったのが、いきなり現実を突きつけられた。進学のための受験。高卒か大卒、どちらを選ぶか。あるいはどこに就職するのか。日数もないのに答えを迫られた。

 同級生との関係もぎすぎすしだした。みな意識していなかったというだろうが、あきらかに上下を競いだした。陽翔の成績はそれなりだったものの、テストの順位が貼りだされる露骨な競争心の煽り方に、早々に嫌気がさしてきた。そんなある日、授業で教師に指されたとき、質問に答えられなかった。黙って立ち尽くすうち、恥をかかされた、そう痛感した。

 陽翔はうつむいたままいった。「学校でなにか挫折があると、ひきこもりが始まる」

 角間が戸惑いをしめした。「どういう意味かな?」

「学園長さんのインタビューかコラムか、とにかく記事を読みました。もとから友達づきあいに苦労してる子もいるけど、たいていはいちどの挫折からだって」

「そうか」角間の物言いは依然として穏やかだった。「ほかにどんなことが書いてあった?」

「ひきこもりは、緊張しがちなところがあって、集団生活に柔軟に対処できない。社会性に乏しくて未熟」

「保護者向けの記事だったんだけどね。きみ自身はそんなふうに思っていないだろう?」

 答えたくなかった。記事の内容が克明に浮かんでくる。それだけ熱心に読みこんだのだろう。ひきこもりの親は、子供に過剰な期待を寄せた経緯があり、一方で情緒面には無頓着である。世間体にこだわり、社会的地位に人間の価値をみいだしているため、その観点から子供を見てしまう。よって子供は社会に対し、絶えず強いプレッシャーを感じ、挫折感をより濃くする。

 いま言葉にする気にはなれなかった。母親を責めるも同然だからだ。父はかつて頻繁に告げてきた。陽翔が生まれたとき、お母さんやお父さんが、どんなに喜んだかわかるか。両親はけっして恨めない、陽翔はそう感じていた。刷りこみだとわかっていても、逆らう気もなかった。不満はある。けれども怒りをぶつけてはならない。育ててもらった恩があるのに、刃向かうべきではない。悪い子であってはいけない。

 どうにもできず、ただ苛立ちだけを抱え、いつしか不登校になった。父は叩き起こそうと部屋に突入してきた。陽翔は反発し、ベッドでフトンに潜りこんだまま、けっして起きあがらなかった。やがて父はあきらめたように立ち去り、以後は干渉を放棄した。母は食事をつくり、運んでくるのみになった。親子の会話は途絶えた。

 学校を休んでひと月も経過すると、怖くて二度と行けなくなる。もう授業についていけないという不安、友達と疎遠になったという孤独感が、立ち直りたい欲求より勝る。中三でも高一でも経験したことだった。

 角間が冷静に告げてきた。「陽翔君。不登校は中三からといったね。でもきみは無事に中学を卒業してる。高校にも入学した。すごいことじゃないか」

 母の清美が口をはさんだ。「中学の卒業間際になって、やっぱり高校へ行くといいだしたので、集中的に勉強をして……」

「お母さん」角間が抑制のきいた声を響かせた。「いまは陽翔君と話してますので」

 清美が困惑顔で黙りこんだ。陽翔の肩にのしかかっていた重みが、ふっと軽くなった、そんな気がした。角間は母の発言より、陽翔との会話を優先してくれた。ほんの少し嬉しく思った。こういう大人はなかなかいない。教師には皆無だった。

 父より年齢を重ねた顔が、真剣に陽翔を見つめてくる。角間はきいた。「高校も最初のころは、問題なく通えていたんだね?」

 いや。問題がなかったわけではない。ただ新天地への期待感が支えになった。けれどもやはり徐々にわかってきた。なにも変わらない。教師の横柄さにも、スクールカーストにも耐えられなくなった。冬休み明けの三学期、気づけばまた不登校におちいっていた。

 出席日数がなんとか足りたおかげで、補習と追試を経て、二年に進級できた。しかしそこまでだった。新しいクラスメイトらと顔を合わせるタイミングを逸した。いまさら登校できない、そんな思いとともに、ひとりきりの日々をすごした。もとの木阿弥だった。

 外出もせず、ずっと家にいて、ただ昼夜が逆転した生活を送る。両親に負担をかけている自覚はあった。こんな生活は永久につづかない、つづくべきではない。

 塚越学園の名はネット記事で目にした。ただし検索しても、詳細まではわからなかった。まさかそこに送りこまれるとは想定の範囲外だった。とはいえ近いうち、どうにもならない状況に追いこまれる、ぼんやりそう感じていた。これもまた挫折でしかないのだろうか。ひきこもり生活の挫折。

 陽翔はわずかに視線をあげた。「質問が」

 角間が見かえした。「なんでもきいてくれていい」

「その矯正施設ですけど……」

 倉橋が笑った。「全寮制の学校だよ。卒業の認定も受けられる。そこへ転校するだけだ」

 そういわれても、新たなクラスになじむ自信がない。陽翔はつぶやいた。「寮の部屋にひきこもるだけかも」

「陽翔君」角間は表情を和ませた。「それならそれでいいんだ。寮も学校の一部だから、自室で学習すればいい。希望すれば試験も部屋で受けられる。そうしてる子もいるよ。周りには、徐々に慣れていけると思う。みんな同じ悩みを抱えた生徒たちだ。きっと仲よくできる」

「三年への進学は……」

「いまからでも補習を受けて、試験に合格すれば充分に可能だ」

 卒業はとっくにあきらめていた。でもまだ希望はあるという。なら拒否する理由はない。不安はあるが受けいれるべきだろう。落ちこぼれとみなされ、矯正施設に送りこまれても、いまの自分を変えられるなら。

 もう迷いたくなかった。陽翔はうなずいた。「塚越学園に入ります」

 倉橋が意外そうな顔をした。「きみは本当にすなおだね。自分から入ると即答する子はめずらしい。こういう話を持ちかけられると、反発する子が多いんだが」

 視界の端に、母の反応をとらえた。清美は両手を腰にあて、キッチンをうろつきだした。昼食か夕食の献立を考え始めている。母が安堵したときにしめす反応だった。

 もの寂しい思いだけが、陽翔のなかにひろがっていった。

 息子が家をでて、住みこみの矯正施設へ移る、そう決意した。それを見た母親はほっとして自分の生活に戻った。わずかなしぐさのなかに、喜びの感情すらうかがえた。

 切り傷が風に触れたように心が痛む。人前で涙をこらえるのはひさしぶりだった。いつもひとりで泣いていたからだ。

 角間が察したかのように、気遣いに満ちたまなざしを向けてきた。「陽翔君。きみは立派だ。両親に迷惑をかけまいとしてるんだからね。伝わらない思いも、いずれきっと伝わる。いまは私たちを信じて、自分の将来だけを見つめてほしい」

 かろうじて落涙を制した。視野から母の姿を外すために、陽翔はまた深くうつむいた。

第3回に続く

松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人