動物にだけ優しく人間の名前は覚えない獣医と働くことに!?/『高遠動物病院へようこそ!』①
公開日:2019/11/15
独立したてのWEBデザイナー日和は、姉夫婦から頼まれ、2年間だけ雑種犬「安藤さん」と暮らすことになった。
安藤さんの予防接種のため、初めて訪れた動物病院は、診察券すらなくスタッフは獣医の高遠のみで…。
待望のシリーズ2巻が11月15日に発売!
プロローグ
東京都内には幾つもの商店街がある。商店街というのは地方では寂れてしまってると聞くけれど、都内にある名の知れたものは今も活況を呈しているようであるのを、テレビの情報番組などでは目にしていた。
でも、商店街の近くに住んでいるわけじゃなかったので、実感には乏しかった。そもそも子供の頃や学生の頃も商店街には縁がなかった。それが思わぬ経緯を経て、「茜銀座商店街」という、そこそこ大きな商店街の近所へ引っ越すことになった。
茜銀座商店街には食料品、日用品、飲食店、衣料品、雑貨など、様々な店が揃っていて、土日は買い物客で混雑するほどだ。精肉店で売ってるコロッケの美味しさや、鮮魚店のお刺身の新鮮さ、青果店で安く買える野菜。そんな魅力を私も知るところとなり、足繁くとまではいかないけど、日常的に利用している。
駅から続く商店街は東西に延びていて、全長は二キロ近くにもなるらしい。私の住むマンションは駅の東側にあるので、必然的にそちらにある店を利用することが多いのだが、その端っこ近くに、「鈴木履き物店」という古い看板を掲げた店舗がある。
しかし、「鈴木履き物店」は店主の高齢化により数年前に閉店し、改築された物件は現在…。
「こんな病院、二度と来ませんっ!!」
甲高い声が背後から聞こえ、思わずびくんと身体を震わせた。足下にいる「安藤さん」もはっとしたように頭を持ち上げる。
もしかして…また…?
「安藤さん。先生がまたやらかしたんでしょうか…?」
不安の滲んだ声で話しかける私に対し、安藤さんは困ったように首を傾げる。参ったなと憂えながら振り返ると、壁の向こうにある診察室から顔を見ただけで怒っていると分かる、チワワを抱いた三十代後半の女性が出て来た。
十分ほど前に診察室へ入って行く時、いつものように忠告はしたのだが…。
「ちょっと、お宅の先生、どういう人なの!?」
「すみません。何か…失礼なことを…?」
「失礼どころの騒ぎじゃないわ! 私にメルちゃんを殺すつもりかなんて聞くのよ? 私がメルちゃんを殺すわけないじゃないの!」
「……」
やっぱり…。怒った声が聞こえて来た時点で、そうじゃないかと思っていた。いや。メルちゃんというチワワを見た時からだ。ずっと飼い主さんが抱いていたからはっきりとは分からなかったが、太っているのではないかと疑われたのだ…。
飼っている犬や猫を肥満体型にしてしまう飼い主は先生の天敵だ。だからこそ、もっと念入りに注意すべきだったのに…。
自分のミスを悔やみながら、もう一度「すみません」と失礼を詫びて頭を下げる。そんな私に飼い主さんは「もういいわ!」と捨て台詞を残して、さっさと出て行ってしまった。
「……」
出入り口のドアが閉められると、虚無感に襲われる。何度言ったら分かるのか。思わず握り締めた拳から、私の怒気を感じたらしい安藤さんが心配そうに見ているのに気づきはしたけど、一言言わなくては気が済まなかった。
受付の背後にある壁を回って、診察室へ向かう。ガラス張りの診察室の中では、先生が肩たたき棒を持って本を読んでいた。
「先生!」
「いいぞ。入って貰ってくれ」
「違います。今の飼い主さんに何を言ったんですか?」
「え?」
怪訝そうに眉を顰めて聞き返して来る先生は、凜々しい顔立ちをしている分だけ、迫力がある。背が高いっていうのも影響してるだろう。初めて会った時は怯んだりもしたけれど、もう先生の怖い顔には慣れた。
「また失礼なことを言ったんじゃないですか?」
眉間に皺を浮かべたままの先生に対抗して、腰に手を当てて敢えて胸を張って聞き返す。先生は仏頂面で「別に」と言い放つ。
「失礼じゃない。本当のことを言っただけだ」
「ですから。この前も言ったじゃないですか。たとえ本当のことだとしても、言い方っていうものがあるって」
「俺はあの犬の為を思って注意しただけだ。触る前から肥満だって分かるような体型で、測ってみたら6キロ超えてたんだぞ。特に小型のチワワだったから、あのサイズなら三キロあっても重いくらいだ」
「…それは…ちょっと重いですね」
太って見えたのは気のせいじゃなかったらしい。動物に関して、まだまだ素人同然の私が気付いたくらいなのだから、やはり相当だったのか。
適正体重の倍以上だったと聞かされ、気勢を削がれた私に、先生は淡々と続ける。
「先に体重管理をした方がいいって勧めたら、それは無理だからフィラリアの薬だけくれって言うんだ。なんで無理なんだって聞いたら、欲しがるだけあげるのがうちの主義だからってほざきやがった。だから、それはどういう主義なんだ、太らせて殺す主義なのかって確認したまでだ」
「……」
確かに常識のない人だったようだけど、愛犬を…しかも、予防薬を貰いに病院に連れて来るような飼い主さんで、長生きを望んでも殺すつもりがある人なんて、いるはずがない。それを先生だって分かっているだろうに…。
「殺すなんて…そんなつもり、あるわけないじゃないですか。飼い主さん、怒って帰ってしまわれましたよ。もっと優しく伝えて下さいと何度も言ってますよね」
「優しくしたぞ」
「犬に、ですよね?」
ぶっきらぼうに言う先生にすかさず指摘すると、むっとして押し黙る。そこへ先生にとっての救いの神が現れた。
「お!安藤さん!」
私と先生が言い合っているのを心配してか、受付からやって来た安藤さんを見つけ、先生は破顔してその前にしゃがみ込む。普段の無愛想さが嘘のように、先生は安藤さんを可愛がる。よしよしと嬉しそうに撫でる先生は、安藤さんが大好きなのだ。
安藤さんも先生が大好きなので、撫でられて嬉しそうに尻尾を振っている。そう。「安藤さん」は、犬だ。事情があって私が一緒に暮らしている雑種の犬で、とても賢くて穏やかだ。妙な成り行きで私が働くことになったここ…高遠動物病院に一緒に出勤している。
安藤さんを愛でている先生は、普段の仏頂面で無愛想でぶっきらぼうな先生からはほど遠い。安藤さんだけじゃなく、先生は犬でも猫でも、動物なら何でも愛おしげに接する。動物が大好きで、だから獣医になったというのは納得ではあるが…。
もう少し人間にもその愛想を向けて欲しいというのが、高遠動物病院の唯一のスタッフである私…森下日和の切実な願いだ…。
私がそれまで全く縁のなかった動物病院で働くことになったのは、「安藤さん」がきっかけだった。
子供の頃からずっと犬のいる生活を送っています。
今は黒柴とキジトラ猫と共に暮らしています。