公安に危険分子とみられている結衣、施設は「最後の砦」か…?/ 松岡圭祐『高校事変Ⅲ』⑤

文芸・カルチャー

公開日:2019/11/16

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第3弾! 前代未聞のダークヒロイン・優莉結衣が、シリーズ最強の敵、戦闘能力の高い元・軍人たちを相手に大活躍する…!?

『高校事変III』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 倉橋が腕組みをした。「三人の男子生徒が被害をうったえないのは、身からでた錆だとわかってるからだろう。クラスメイトや教師たちも、きみをかばっているんだと思う。でもいまになって、こんな映像がでてきた。暴行や傷害は親告罪じゃないから、被害者が警察に告訴しない場合でも、立件される可能性はある」

 角間は渋い顔で倉橋を眺め、首を横に振ってから、結衣に目を戻した。「実際には被害届がでていなければ、立件されることはめったにないそうだ。知り合いの弁護士にきいた。現行犯逮捕ならともかくこの映像だけなら、少年たちに非があった事実も考慮され、酌量される公算が大きいらしい。退学処分が妥当なものの、すでに転校ずみでもある。ただ、きみの場合はそこで終わらない」

 結衣はうつむいたままだった。見るに堪えないと猪原は思った。

 彼女の保護者として、実の親も同然の辛さを噛みしめるしかない。突き詰めれば出生のせいだった。残酷な通達になる。それでも伝えないわけにはいかない。

 角間が結衣にいった。「優莉さんでなく、結衣さんと呼ばせてほしい。だめかな?」

 結衣は目を伏せたまま、小声でささやいた。「いえ」

「そうか。じゃ結衣さん。うちの職員によれば、公安警察は優莉匡太の子供たち全員を拘束したがっている。半グレ再結成の芽を摘むためというのが、彼らの理屈のようだ。とりわけ結衣さんを目の敵にしている。なにかにつけて塚越学園に送ると脅されたと思うが、それは逮捕するほどの行為でなくとも、勾留と同等のあつかいにできると公安が考えているからだ。塚越学園を準少年院のように解釈してるんだろう。私としては不本意だ」

 倉橋があとをひきとった。「警察はこの映像をきっかけにきみを逮捕勾留し、ほかの疑惑についても取り調べるだろう。きみがやってもいないことまで、やったかのようにきめつけるつもりだ。世間にもそう思わせようとする。きみの兄弟姉妹や、半グレ連合の再生を謀ろうとする連中に対し、見せしめにするのが狙いだ」

 結衣の顔はあがらなかった。「どうとでも」

 猪原は経験上わかっていた。十代の投げやりな態度は、けっして本心ではない。

 角間も同じ考えのようだった。根気強く話しかけた。「結衣さん。あとで支援団体の弁護士に確認してもらいたいが、私は自分の権限で、警察の関与を事実上退けた」

 ようやく結衣が角間を見かえした。無表情のようで、かすかに驚きのいろが浮かんでいる。

「そう」角間はテーブルの上で両手の指を組みあわせた。「異例といえば異例だ。しかし私は、少年少女の非行がただちに警察沙汰になる昨今の風潮を、好ましくないと感じている。更生の支障になると考えてるんだ。補導歴や逮捕歴ができてしまうと、未成年者はもう取りかえしがつかないと思いこむ。たとえ立件されなくても、もう自分は犯罪者だと投げやりになる。そんな生徒児童が圧倒的に多い。だからいちどだけチャンスがほしいという意味で、塚越学園の設立を申請した。そもそも塚越学園は、子供が司法に問われる前段階の、救済措置として誕生したんだ」

 ふと疑問が湧いた。猪原は角間を見つめた。「でも公安警察は、ふつうの刑事警察とはちがうでしょう。優莉匡太の子供に違法行為が認められれば、ただちに身柄を拘束するかまえだと思います。この映像が不問に付されるとは考えにくいですが」

「ええ」角間が見かえした。「とはいえこれも弁護士にきいたのですが、結衣さんの暴力行為については、刑事警察の捜査が優先するそうです。つまり宇都宮東署の生活環境課が取り調べる案件になります。公安はあくまで組織犯罪への警戒を目的としているので、副次的な立場です」

「捜査に乗りだしてくるのは、まず生活環境課ですか」

「そうなると思います。しかし平成二十六年の少年法改正で、刑事事件に関する処分の規定が見直されました。懲役刑や不定期刑の上限を引きあげる代わりに、軽微な犯罪であれば、塚越学園での矯正が司法に優先するという内容です。いわば厳罰化一辺倒にしないための調整がなされた結果です。送致義務からも除外されます」

「すると塚越学園は未成年者にとって、警察沙汰を免れるための駆けこみ寺だと……」

 角間が苦笑を浮かべた。「非行が発覚したから塚越学園送りになるという解釈よりは、的を射ていると思います」

 倉橋はいった。「あとは結衣さんしだいでしょう」

「同感だ」角間が結衣に向き直った。「きみの意思をたしかめたい。刑事警察が立件できず撤退しようと、暴行の事実は認定されるから、公安が乗りだしてくる。彼らの取り調べは、理由が半ば強引であっても容認される。なぜなら、きみが優莉匡太の娘だからだ。半グレ連合の再結成阻止という建前が、公安の勇み足を正当化してしまう。捜査内容をマスコミにリークし、世間から孤立させようともするだろう」

 またしばらく沈黙があった。今度の静寂は長くつづいた。結衣はうつむいたままいった。「いまさら逃げ隠れしません」

 猪原は面食らった。差し伸べられた手を拒絶し、警察沙汰を選ぼうというのか。

「よすんだ」猪原は思わず語気を強めた。「いったん警察の世話になったら、世間の風あたりが強まる。たとえ釈放されても、公安が執拗につきまとうだろう。犯罪者のごとく報じられる。そうなったらもう、きみをこの施設に置いておくのは……」

 不可能になる。ほかに子供を預けている親たちから苦情がでるからだ。

 角間が切実に話しかけた。「結衣さん、頼む。さっきも説明したように、ほかの親のもとに生まれていれば、この映像だけで致命傷にはなりえない。しかし公安警察は、これまで人権派団体に守られていたきみを貶める好機とみる。彼らは偏見にとらわれ、きみを危険分子ときめつけている。優莉匡太のもとに生まれたのは、きみの責任ではない。だから私にきみを預からせてもらえないか。私にはきみを守りきる自信がある」

 なおも結衣の顔はあがらなかった。「そこになにがあるんですか。卒業後はまた公安に尾けまわされる」

「そうかもしれない。でもこの映像に基づく暴行容疑は、塚越学園での修業をもって不問となる。ようするに公安は、塚越学園を卒業したきみに対し、この映像をなんの証拠にもできなくなる」

「三人の男子を怪我させた事実は、なかったことになるんですか」

「そうじゃない」角間はため息をついた。「記録は残る。しかし罪には問われない。おこないの是非は、きみ自身が学ぶべきことだ」

「武蔵小杉高校事変や、牛頭組事件や辻舘事件が、わたしと無関係だと思いますか」

「思うよ。きみがそういってるかぎりは。結衣さん。なにがあっても子を信じ抜くのが、親の務めだ。きみにはそんな親がいなかったと想像する。優莉匡太のもとに生まれた時点で、健全な発育を望めなかった。悪影響がきみの暴力的な衝動につながった」

「父と一緒にいたのは九歳までです。それに、もう死にました」

「きみはまだその呪縛から逃れていない。優莉匡太は逮捕後の精神鑑定により、非社会性パーソナリティ障害であると同時に、自己愛性パーソナリティ障害であり、演技性パーソナリティ障害でもあるとされた。きみと父親の関係がどうだったか、内情はまったく知らない。しかしこれらの症例に起因する、共感性の乏しさと被害者意識は、子供への虐待に結びつきやすい。私は児童虐待を撲滅するため、この道を歩んできた。きみは被害者だと、私は思っている」

 猪原は後ろめたさを感じていた。自責の念が激しく迫る。角間の主張こそ正しい。あくまで子を信じ、守り抜くのが親の義務だ。そこまでのことが成し遂げられなかった。結衣を迎えいれてからずっと、施設長として彼女の保護者だったはずだ。なのに限界があった。ふがいなさを恥じるしかない。

 倉橋が身を乗りだした。「この場で決断しろとはいわない。いちど塚越学園に見学にきてくれないか」

 返事はなかった。結衣はうなずきもしない。猪原は目をそらした。直視するには痛ましすぎる、そう思った。

 そのとき階段の上方が視界に入った。痩身のセーラー服が身をかがめ、一階をのぞきこんでいる。中一の十三歳、嘉島奈々未の妹、理恵だとわかった。

 理恵は猪原の視線に気づいたらしく、そそくさと二階に姿を消した。

 心が沈んでいく。事件以来、理恵は結衣を慕っていた。いまの話をきかせたくなかった。前もって別離を悟るべきではない。悲しみの感情が増すだけだ。

第6回に続く

松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人