あなたは、自分以外の「誰か」になりたいですか? 「誰でもない者」から見えてくる人間の本質――川上弘美著『某』

文芸・カルチャー

公開日:2019/12/14

『某』(川上弘美/幻冬舎)

 名前も記憶もない、性別さえ分からない「誰でもない者」。人間に擬態することで生き長らえることができる未知の生物が主人公となる本小説『某』(川上弘美/幻冬舎)。川上弘美さんの大ファンである私は、本書を読みはじめる前に著者には珍しいテイストの作品なのだろうと思っていたが、読み進めていくとやはりそこには「川上さんの世界」が広がっていた。

 物語の主人公となるのは、名前や記憶、お金など何も持たない「某(ぼう)」。某の記憶の始まりはとある病院の受付だった。診察室に待ち受ける一人の男性医師(蔵医師)によると、顔は男女どちらだか判断できない、染色体も不安定とのことで、どうやら世の中には稀にこのような「誰でもない者」が存在するという。限りなく人間に近いのだが、人間ではない。蔵医師が提案する治療法とは、某の「アイデンティティーを確立していくこと」というとても奇妙なものだった。

 某がまず擬態したのは、16歳の女子高校生・ハルカ。彼女は、蔵医師が働く病院と同系列の高校に転入生として通うことになる。人付き合いがあまり得意ではないハルカには、ユナと長良さんという2人の友人ができるが、ユナと長良さんはお互いを嫌っているという始末。蔵医師はハルカに毎日日記をつけるようにと言い渡し、それを毎日チェックして「誰でもない者」について知識を深めようと試みるのだ。ハルカとして毎日をたんたんと過ごししばらく経った頃、突然蔵医師からそろそろ次の治療へと移る時期が来たと告げられる。

advertisement

 某が次に擬態したのは、同じく16歳の男子高校生・春眠(はるみ)。今度は顔も体格も声も、しっかりと男性の姿になっている。人付き合いが苦手だったハルカとは異なり、クラスのみんなともすぐに仲良くなった彼の興味の対象は「セックス」。いかに女の子とセックスするかで頭の中が占められている。日記にも、「セックスがしたい、という欲望は、いったいどこから湧いてくるのだろうか」との一文を書いてしまうほど。ただし、彼には性欲はあるが恋心はまったくなく、人を好きになることがどういうことなのかいまいちよく理解できないという状態だ。

 このようにして、この後某はさまざまな人間に擬態して生きていくことになる。学校の事務員として働く「山中文夫」、病院を抜け出しキャバクラで働く「マリ」、カナダでの生活を始める「ラモーナ」、工事現場を渡り歩く「片山冬樹」、そして「ひかり」。性別も性格もまったく異なる人間になっていく某だが、共通しているのは以前擬態した者の記憶がうっすらと残っていること。ラモーナでありながらも、ハルカや文夫、マリなどの記憶をどこか遠くに感じながら、自分の人生を生きているのだ。初めはまるで人形のような希薄な空気をまとっていた某だが、次第に人間味を増していく様子が面白い。また、擬態を重ねるごとに人間としてのさまざまな感情を知ることになり、ひかりは恋や愛も経験する。

なぜ今まで恋をせずにすんでいたのだろうかと、あたしはただただ不思議に思う。
落ちてしまうと、恋というものは、本当に簡単に落ちることができるのだということが、わかる。まるで落とし穴だらけの地面を歩いているかのように。

「愛してるって、どういうことなの?」
「言葉であらわすと、嘘っぽいけど、相手のために生きたい、っていうことかな」

 本書の中には、某以外にも「誰でもない者」たちが登場する。彼らも国籍や性別、年齢などを超えて、さまざまな人間に擬態しているのだ。同じ運命を背負う者同士分かりあえることは多く、お互いに必要な存在として彼らの関係も続いていく。某が「ひかり」に擬態した時、彼女は心の奥深くで人を愛することになるが、その事実が思いがけない身体の変化を起こすことに。想像を超えた物語の結末に、感動して涙が止まらなかった。

 私たち人間は、自分以外の何者にもなることはできない。たとえ、自分の人生に100%満足できていなくても、自分として生きていくしか術はないのだ。一見、他の人間に擬態できる某が羨ましくもあったが、そこには「誰でもない者」ならではの孤独と悲しみがつきまとっている。「愛する人とずっと一緒にいたい」という願いを持ちはじめた時、擬態することでしか生きられない存在であることは、とても苦しいものになるだろう。果たして、どちらが幸せなのだろうか。本書を読み終えた後、「私の人生、結構幸せだな」と感じることができた。

文=トキタリコ