死ぬ前に「ありがとう」と言わせたい――毒親を捨てるか関わるか葛藤に苦しみながら介護する子に迫った『毒親介護』
更新日:2020/9/1
読むだけで辛い。彼らの胸中を察するにあまりある。『毒親介護』(石川結貴/文藝春秋)で描かれる家族の形は歪んでいた。
子どもが成人して家を出れば、毒親との関係も終わる。そう考えがちだが、実際は違うことも多い。年老いて自力で生活できないほど弱った憎き毒親を、複雑な胸中で介護することもある。その実態に迫ったのが本書だ。
■死んだら楽になれるとさえ思った
沢田雅也さん(50歳)は、酒乱だった父親から耐えがたい暴力や精神的苦痛を受けて育った。メシがまずい、風呂がぬるい、という理由で顔を5、6発殴られる。実の息子なのに「顔が気持ち悪い」「こんなやつ飯を食わすだけムダだ」と罵られる。
なによりも苦痛だったのは、父親から強制させられる「正座」だった。座敷の隅、廊下、土間、物置、戸外、たとえどこであろうと父親が指定した場所で、「もうよし」と言われるまで正座しなければならない。3時間以上に及ぶこともあるので失禁する、夏になれば全身をやぶ蚊に刺される、冬になれば寒さで気が遠くなる。
ときには意識が遠のいて死が間近に迫っていることを感じたが、むしろ「死んだら楽になれる」とさえ思った。
想像を絶する虐待だ。本書では毒親による辛いエピソードが何例も紹介されている。正直に話せば何度も「もう読みたくない。ここで本を置こう」と思った。しかし本書の本題はここからだ。子どもたちが複雑な胸中で毒親の介護をすることになる。
■死ぬ前に「ありがとう」と心の底から言わせたい
田島康代さん(60歳)が母親に向ける介護の様子は、はっきりいって異様だ。異常というべきか。母親が「アーン」といいながら口を開けると、田島さんがねっとりした入れ歯をはがし、ていねいに洗い上げる。さらに口内をきれいに磨き上げ、仕上げにリップクリームを塗るのだから、読みながら眉をしかめてしまう。
母親は階段の上り下りが難しいなど、ある程度の介護を必要とする。しかし手は動くので、ここまでする必要はない。食事に細かな注文をつけ、気に入らなければ「取り換えて」と要求する。家族で旅行に出かけようとすれば、「私は行かない」とみんなを困らせ、田島さんに「母親と一緒に家に残る」と言わせようとする。まるで駄々っ子だ。そして田島さんを「召使い」のように扱う一面が見られる。もっと異様なのが、異常な母親の要求に応え続ける田島さんだ。なぜこんな歪んだ介護を続けるのか。
「ヘビににらまれたカエルって言いますよね?あんな感じで私は母の機嫌が悪くなるとすごく怖いんです」
田島さんの幼少時代も、沢田さん同様に壮絶だ。本書を読む限り、おそらく母娘の間に暴力はなかった。だが「無言の圧力」というべき虐待を受けた。
母親は「あなたを産んだときに生死をさまよった」「あなたのせいで寿命が縮んだ」と、幼い田島さんに言い続けた。実の子どもに一生消えぬ罪悪感を植えつけたのだ。そして「体が弱い」ことを理由に家事を手伝わせるのだが、少しでも田島さんが手間取ると不機嫌になる。冷蔵庫をバーンと威嚇的に閉め、午後6時を告げるラジオの音量をあからさまに上げる。陰湿だ。無言の支配だ。読むほど頭に血が上る。こんな母親がいるのか。
このため田島さんは幼いながらに、母親の顔色をうかがいながら、その場の空気を読み、気を配る生活を続けた。幼少期の虐待は心の鎖となる。田島さんは非力を演じて構ってほしがる母親を見捨てられず、献身に献身を重ねて介護する。介護保険を使えば社会福祉サービスが受けられるのだが、田島さんは申請しようとしない。
死ぬ前に、『康代、ありがとう』と心の底から言わせたい。お詫びでもお礼でもなんでもいいから言ってもらうために、今投げ出すわけにはいかない気がするんです。だってそれがなかったら。私の人生なんだったのよって、あまりにやりきれないじゃないですか
涙ながらに語る田島さんの気持ちは、理解できない人が多いだろう。本書に登場する子どもたちの胸中は、どれも本当に複雑で苦しそうだ。読んでいて胸がしめつけられる。なぜ子どもたちは、こんなにも毒親に苦しめられなければならないのか。
■毒親介護に兄妹の助けは得られないのか?
毒親と聞くと、親と子どもの関係だけに目が向く。しかし毒親は兄弟姉妹の関係も壊すようだ。先述の沢田さんには妹がいる。だから父親の介護を頼もうとしたのだが、一方的に拒否されてしまう。さらには「沢田家に関する一切を放棄します」という「念書」を突きつけられてしまった。雰囲気から察するに、ほぼ絶縁に近いように感じる。
理由はその過去にあった。父親から虐待を受けた沢田さんは、行き場のない感情を妹にぶつけた。暴力をふるったのだ。それから妹は沢田さんを避けるようになった。妹との関係を気にも留めなかった沢田さんは、今になってしっぺ返しを食らう。
本書で紹介される別の兄妹も同様だ。毒親にあたる母親と3人の姉弟が一緒に住んでいる。しかし4人全員の関係が崩壊。弟は妹に辛く当たり、妹は姉に不平不満をもらす。母親も姉に辛く当たる。その状況に姉がすべてを投げ出しそうになる。
毒親に限らず、介護は協力者の存在がカギになる。介護する子ども側に心身の負担が重くのしかかり、金銭面でも追い打ちをかけられるからだ。そんなとき頼れるのが血を分けた兄妹のはず。しかし本書で取り上げられるケースでは、どれも関係が破たんしているように見えた。孤立無援。そんな印象を受ける。
■「捨てる」か「関わる」の2択
本書が突きつける毒親介護の現実は重い。読めば読むほど、読者のエネルギーを奪っていくようだ。本書では専門家にも取材することで、なぜ毒親が生まれて、子どもを虐待するのか、その理由について解説している。キーワードは、「毒親の世代」と「毒親の幼少期」だ。毒親も私たちと同じ人間である。彼らの行いは許しがたいが、彼らにも同情すべきポイントがあることを知ってほしい。
さらに本書では、毒親を介護するときの対処法についても解説する。選択肢は2つだ。「捨てる」か「関わる」か。毒親に関わることで破滅するくらいならば、自分の人生を優先して「捨てていい」。しかしただ捨てると法律に抵触する可能性があるので、必ず行政に相談しよう。そして「関わる」ならば、その範囲を決めることだ。本書の説く対処法が、本書に登場する子どもたちに届いてほしいと願う。
最後にもう1つだけ、印象的だった母娘のケースをご紹介したい。ある毒母は酒乱で兄妹に暴力をふるった。憎しみを抱いた子どもたちは、1人寂しく家で老いていく毒母を放置。今では「最低限の情」を抱く娘が年に数回、“日帰り”の介護を行っている。自業自得ともいうべき見捨てられた晩年の姿に、きっと娘も胸のすく想いかと思いきや、そうでもなさそうな雰囲気がある。
「まぁ、あの人も寂しい人生ですよね」
ポツリとこぼしたこの言葉に、どんな思いがあるのかは分からない。少なくとも娘がみすぼらしい母親を見て、「ざまあみろ」と満足しているわけではなさそうだ。
本書を読むと、彼らの心の叫びが聞こえてくるようだ。「親から愛情をたっぷり受けて、笑顔あふれる幼少期を過ごしたかった」。大人になっても幼少期からの関係を抜け出せないでいる彼らの胸中を察するにあまりある。せめて毒親を介護する最後のひとときだけは、どうか救いのある時間になってほしい。
文=いのうえゆきひろ