なぜ日本では「痴漢」という卑劣な犯罪がなくならないのか?
公開日:2019/12/16
12月11日、厚生労働省は、競馬やパチンコといったギャンブルの依存症治療について、2020年度から公的医療の保険適用をする方針を固めた。ギャンブル依存症に限らず、何かに依存してしまった患者は、本人の意志で解決できない「やめたいのに、やめられない」状態になる。ギャンブルにのめりこめば、会社をクビになったり返しきれないほどの借金を背負ったりする。それでもギャンブルをやめられないのが、依存症の恐ろしいところだ。依存症とは、本人の性格や意志の問題ではなく、病気なのだ。
それは痴漢という行為についても同じことが言えるようだ。『痴漢外来』(原田隆之/筑摩書房)では、犯罪心理学の研究者であり依存症に詳しい原田隆之氏が、犯罪として非常に卑劣な「痴漢」になぜ人が依存してしまうのかという心理的側面をひもとく。
原田氏は性犯罪の再犯率を低下させるための治療プログラムを開発し、痴漢をはじめとする性的問題行動を抱える患者たちへの治療を施している。性犯罪依存症の治療に取り組む精神外来クリニックは、日本でまだ数カ所しかないそうだ。このクリニックではその治療プログラムを分かりやすく表現するため、便宜的に「痴漢外来」とよんでいる。
この本の取り扱う「痴漢」は、ひとつの社会問題であり、とても根深い。
■脳に心臓があるかのような興奮…
痴漢は病気だ。もしくはその可能性がある。だが多くの人はそう理解していない。医療関係者でさえ痴漢を「当人個人の問題」と片づけるのだそうだ。
「犯罪行為である痴漢を病気で片づけるな」「罪を軽くしようと責任逃れするな」という意見ももちろんある。だから順を追って本書の内容を説明していきたい。
本書では、痴漢外来を訪れる患者が「痴漢の依存症になっていった事例」を取り上げている。非常に生々しいので、本稿では雰囲気だけを再現したい。
シンジさん(30代)が痴漢を開始したのは高校生のとき。きっかけは偶然だった。通学で利用していた電車が人身事故のため混雑し、車内がかつてないほど“すし詰め状態”になった。否応なく周囲と極度に密着し、シンジさんの体が意図せずよじれ、斜め後ろにいた女子高生の顔と向かい合ってしまった。
その瞬間、頭に電流が走ったようになり、心臓がものすごい勢いで鼓動を始めた。全身から汗が噴き出るような感覚になり、平静を保とうとするほど体がほてったという。そのあと学校に遅れることもいとわず、駅のトイレに駆けこんだ…。これ以来、シンジさんは満員電車に乗るのが楽しみになり、痴漢行為に手を染めていく。
シンジさんは、痴漢行為がバレて警備員から追いかけられたときでさえ「楽しい」という高揚感を覚えたという。まるで「脳に心臓があるかのような感覚」と表現しており、原田氏は「薬物依存患者が薬物を注射したときの感覚とまったく同じ」と指摘する。
シンジさんは痴漢によって一度逮捕されている。それでも痴漢をやめられず、日増しに快感より罪悪感のほうが募っていく。痴漢を「やめたいのに、やめられない」。これを「本人の問題」だけで片づけるのは、道のりが遠いだろう。
■痴漢はほぼ日本特有の特殊な犯罪
原田氏によると、痴漢はほぼ日本特有の特殊な犯罪だそうだ。不特定多数の女性と男性が毎日満員電車で通勤するという社会文化が、痴漢という犯罪を助長させている一面は否定できない。
だが、なぜ一部の人が痴漢依存症になるのか。これらはギャンブル依存症やセックス依存症と同じ原理が働いている。詳しく説明すると長くなるため、端的に述べるとこうだ。
痴漢によって性的興奮を覚えたとき、脳の中の快楽を感じる「快楽中枢」に大量の快感物質「ドーパミン」が分泌される。それが一種の「記憶」となり、その快感の源、つまり痴漢を反復するように脳が命令する。人間の脳は「理性」をつかさどる部分と「本能」をつかさどる部分があるので、理性は「痴漢をやめたい」と思う。しかし本能が「痴漢によって快感を得たい」と命令を出せば、本能が理性を上回り、制御不能の行動をしてしまう。これが「やめたいのに、やめられない」依存症のメカニズムだ。
また、依存症に陥る人は、なにかしらの問題やストレスを抱えていることが多いという。私たちはストレスを感じたとき、なにかしらストレス解消の「対処」をしようとする。それを心理学では「コーピング」とよぶ。
依存症患者は、このコーピングのレパートリーが少ない傾向にあるという。つまり、ストレス解消の手段が少ないために、たとえば痴漢行為によってストレスを解消しようとしてしまうのだ。原田氏によると、痴漢外来の患者たちは、治療を通じてまず、ストレスが原因で痴漢を行っていたのかと気づくという。しかしそれだけではまだ理解が足りない。当人が直視すべきは、ストレスの解消方法が少ないために、犯罪行為に手を染めたこと。痴漢は、必ずしも歪んだ性癖という原因だけで起こる犯罪ではないのだ。
■治療を伴わない刑罰には再犯防止効果がない
痴漢外来で治療を行う原田氏のもとにはさまざまな意見が寄せられる。特に多いのがやはりこんな批判だ。
「病気だからといって痴漢の罪が軽くなるのは許せない」
しかし、原田氏はこれは誤解だと述べる。なぜなら、痴漢は「犯罪か病気か」という二者択一ではない。痴漢が病気だからといって、罪の責任能力がなくなるわけではない。「痴漢は犯罪であり、病気でもある」という視点を提案しているのだ。
その提案をするもっとも大きな要因は、「再犯を防ぎたい」という原田氏の考えだ。最近の犯罪心理学の知見では、「治療を伴わない刑罰には再犯防止効果がない」ことが明らかになってきたという。
犯罪者の多くは、社会規範を軽視したり、自分に都合のよい解釈を行う「認知のゆがみ」を持っていたりする。たとえばある痴漢は、「痴漢行為をされる女性は喜んでいる」というゆがんだ認知をしている。自分勝手で誤った思考を有しているにもかかわらず、刑務所では犯罪者として一時期的に社会から隔離するのみで、彼らの内面を「治療」することはほぼない。刑罰だけで更生させるのは困難なのだ。
原田氏は、「行動認知療法と呼ばれる心理学の治療を行うことで、まったく行わない場合に比べて、再犯率が約3分の2に抑制できることが明らかになっている」と指摘する。痴漢をはじめとする性犯罪の再犯率が、他の犯罪に比べて高い傾向にある中で、この意義は大変大きい。
原田氏は痴漢を「犯罪であり、病気でもある」と捉えた上で、性犯罪者たちを「治療」することにより、再犯を防ごうとしている。そのために痴漢外来という活動を続けている。
■男性は痴漢という犯罪を軽視している
本書後半では、性的依存症の原因と診断を学術的エビデンスを元に解説し、その具体的な治療法を紹介する。本書を読んで驚いたのは、痴漢をはじめとする性的問題行動に悩む患者がとても多いことだ。痴漢外来は開院以来一度も患者が途切れたことがないという。それだけ自分の意志でやめられない依存症に苦しむ人々が多いのかもしれない。
さらに性犯罪の被害を受けた被害者の声も本書は取り上げる。痴漢という犯罪が女性にとってどれだけの恐怖であり、一方で男性はどれだけそれを軽視しているのか――犯罪が浮き彫りにする社会の闇に言葉を失くしてしまう。痴漢は犯罪で、しかもとても根深い。痴漢がなくならない理由のひとつには、起きている事実が正確に受け止められていないこともあるだろう。本書が明かす情報にはそういった面でも非常に価値がある。
痴漢は卑劣な犯罪であり、厳罰に処すべきだ。これは間違いない。しかし、議論はここで止まってはいけない。痴漢をはじめとする性犯罪に再犯が多いという事実があるならば、刑罰以外の別の手も打たなければならない。それを提案するのが本書であり、痴漢外来という治療だ。痴漢外来のような場と治療が全国に広がれば、性的問題行動を抱える人々による性犯罪を減らすことができるのだ。
本書の提案する治療が社会に広く認知されることで、次なる被害者を未然に防ぐ未来が訪れることを願う。
文=いのうえゆきひろ