【試し読み】笑いあり涙あり!『大名倒産』に欠かせぬ三枚目・新次郎の恋の行方は!?

文芸・カルチャー

公開日:2020/1/2

『大名倒産』(上下巻)(浅田次郎/文藝春秋)

【あらすじ】

 足軽の子かと思いきや、お殿様ご落胤と判り、あれよあれよと大名となった小四郎、いや、越後丹生山三万石松平和泉守信房。よもやまさかの思いも冷めぬまま初登城を果たしたお殿様を待ち受けていたのは――

「御尊家には、金がない」

 老中からの無情な宣告に慌てて調べてみれば、なんと御家は火の車。

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「父上にお訊ねいたします。当家には金がないのですか」

「金はない。だからどうだと言うのだ」

 かさみにかさみ、積もりに積もった借金にほとほと嫌気がさした先代、御隠居はこう考えた。

 もはや、これまで。返済など夢のまた夢、利子支払いすらおぼつかぬ巨額の借金でしか維持できぬ御家なら維持すべきでないのだ、取り潰し結構、やってもらおうじゃないか、それまでに隠し財産貯め込めるだけ貯め込んで、当代(つまりは息子です、ひどい……)ひとりに腹を切ってもらって我らはのんびり余生を過ごそうぞ。

 そうとは知らぬ若きお殿様は、幼馴染のご家来とともに金策に頭をひねる。

 幕府への献上品の不渡をなんとか都合し、次なる難関は、参勤交代の費用。最低でも四百両は要するところ、手元にあるのは四十両。しかも、「親の贔屓目で見ても天衣無縫の馬鹿」と評される異母兄が嫁取りをしたいと言い出して、その結納のかかりたるやなんと五百両!

 その窮状、御家に入り込んだ貧乏神までもが呆れるありさま。

「総費用がたったの四十両じゃと。笑わせるな」

 だが勘定に明るい謎の浪人の助太刀で辛くも切り抜け、なんとかたどり着いた越後丹生山。江戸生まれ、江戸育ちの若者たちが初めて目にした「お国」の景色はあまりにも美しかった。

 お殿様とは逆にお国しか見たことのない、病弱なもう一人の異母兄も、弟の思いに重ねるように懇願する。この丹生山の領分を、ふるさとを、どうか滅ぼさないでくれと。

 さても難儀な御家再建。節約、収税、殖産興業。お殿様は育ての父が手塩にかけて増やした鮭に望みをかける。丹生山の鮭のお味は天下一品、だが領外に売りに出すには江戸も大坂もあまりに遠い。船で運ぶにはまた金がかかる……。

 金がなくても、親に見捨てられても、諦めず知恵をしぼるお殿様と健気なご家来衆の姿に、ひょんなことから改心を迫られた貧乏神までが力を貸すことに。とはいえそこは貧乏神、人を貧させ窮させるしか能がない。どうしたものか……そういえば、百と数十年前にそこらの居酒屋で飲んだ神々がおったな(もちろん払いはあちらもち)、ひとつ頼んでみるとするか。

 はたして、崖っぷちの丹生山に七福神は光来するのか――

『大名倒産』試し読み小冊子

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【試し読み】
笑いあり涙ありの『大名倒産』に欠かせぬ三枚目・新次郎の恋の行方は!?

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 老中のお叱りを受け、隠居の父に無情の「金はない」宣告を受けた御殿様は、家宝を収めた蔵がある中屋敷に住む次兄・新次郎を訪ねる。馬鹿ゆえに跡継ぎを外されたが人柄やさしく、足軽の子から急に若様に仕立て上げられた幼い日に遊び相手となり支えてくれた兄である。この兄が言うに蔵は空っぽ、先祖伝来の御具足も御刀もない。家宝がなくては御先祖様に結婚の報告ができない、取り返しておくれ――。降って湧いた兄の結婚話に驚くやら、嫁取り費用に目の前が暗くなるやらの御殿様。心を慰めようと、次兄の唯一にして最大の才が発揮された美しい庭に目をやるのであった……

 これは風景ではなく、兄の描いた絵だと思うた。

 隣屋敷の濃密な楠を借景として、やや淡い杉の緑を描き、その手前に薄緑の笹を敷き、さらに明るい青苔の付いた岩の間から、銀色の滝が落つるのである。しかもその緑の階調には、少しも企まれた様子がなく、たとえば風の道が標すままに長い時をかけて、その景色が出来上がったようにしか見えぬのだった。

「小四郎は目が利くのう。ここからの眺めはうまくできた」

 いや、自分には美しいものを見極める目などない。誰が見ようと等しく感動する天然の景観を、兄は造り上げたのだと思うた。風流をなすは人の才であろうが、天然を造り給うは神の業である。

 しかし――。

 洟水をすする音に興をそがれてふと見れば、そこに佇んでいるのはまさか神様ではなくて、乾坤一擲の馬鹿であった。

 行水を使ったあとなのだから、浴衣姿はまあよしとしよう。しかし着物というは古今東西、真正面から金玉を晒すものではあるまい。しかも三尺帯は緩み切って、二尺五寸を廊下に曳いておるではないか。仮に闇の廊下でこいつに出くわしたなら、人面の大蛇と思うて腰を抜かすであろう。

 その尻尾のあたりに控えおる家来衆は、なぜどうにかせぬのであろうか。ばんたびのことゆえすでにあきらめているのか、いやおそらく、内心は見世物小屋にでもおるような気分で、面白がっているのやもしれぬ。

 そのとき、池のほとりの躑躅の植込みががさりと動いて、姐さんかむりに襷がけのおなごが立ち上がった。

「あ、新次郎様――」

 にっこりとほほえむ顔が、丸く愛らしい。

 手甲でを伝う汗を拭いながら、おなごは縁側に走り寄った。たくし上げた裾からこぼれる、白い脛と紅絹が眩い。

「まったく、もう。下帯ぐらいお付けあそばせ」

 娘は草履を脱いで外廊下に上がりこむと、目の前の金玉をものともせずに兄の醜態を手早く改めた。

 女中が「新次郎様」などと呼ぶはずはない。職方の手伝いにしては垢抜けている。いや何よりも、こうまでかいがいしく世話をするのは、情が通うているからであろう。つまりこのおなごこそ、オオバントウの娘ならぬオオバンガシラの息女、お初にちがいない。

 和泉守の胸は熱くなった。兄が勝手に見染めたわけではない、とわかったからである。お初のほうが兄を好いていなければ、ここまで世話は焼けぬであろうし、またそのあられもない姿ばかりを気遣って、客人が目に入らぬはずはなかった。

 内心は、(この馬鹿のどこがよいのだ)と思わぬでもない。

 よほど心のやさしいおなごなのであろうか。それともやむにやまれぬ母の性か。蓼食う虫も好き好きとはいうが、如何物食いにもほどがあろう。

 それはともかくとして、目の前の金玉にひるまなかったというは、すでに慣れ親しんでいると見るべきである。

 そこまで思い至ると、和泉守は御庭の絶景が歪むほどのめまいを覚えた。兄とお初はすでに契りを交わしている。子を孕む前にさっさと祝言を挙げねばならぬ。しかるに、わが家には金がない。

「はい、新次郎様。きちんといたしましてよ。役者のような男前でございますこと」

「そ、そうかの。惚れ直してくれたかの」

「惚れ直してなぞおりません」

「えっ、わしが馬鹿ゆえ、嫌いになったか」

「滅相もない。惚れ直したのではのうて、ずっと、ずうっと惚れておりましてよ」

 お初は兄の足元に両膝をついて愛しげに見上げ、兄はその肩を抱き寄せていた。あたりには噎せ返るほどの恋恋たる気がたちこめた。

 兄は二十六、お初もいくつとちがわぬ女盛りであろう。溢れ出る大人の色気が、和泉守の胸を圧した。

 兄の腰を引き寄せて甘え、ふと横を向いた拍子にようやく、お初は客人に気付いた。

「あれ、新次郎様。見知らぬお方が」

「ああ、べつだん怪しい者ではない。わしの弟じゃ」

「と申されますと、越後のお里の死にぞこね」

「それはすぐ下の弟で、これなるはその下じゃい」

「血を吐いて亡うなられた」

「いや、それは兄上じゃ。これはまだ生きておる」

 二人が惚れ合うたわけがわかった。つまり、相身互いの馬鹿が惚れ合うたのである。それならば何のふしぎもないと、和泉守は得心した。

「ということは――」

 どうにも頭が回らぬようなので、和泉守はその場に踞して名乗りを上げた。

「それがし、和泉守にござりまする」

 お初はぽかんとしている。やはり馬鹿のようではあるが、当家の事情ぐらいは承知しているであろう。怖がらせてはなるまい、と和泉守はほほえみかけた。

「お初にお目にかかりまする。それがし――」

「お初はわたし」

「いえ、そうではなく。お初にお初にお目にかかりまする」

 このままでは馬鹿が伝染してしまう、と和泉守は怖れた。

「それがし、弟にあたりまする松平和泉守にござる」

 とたんにお初は、くわっと目を瞠くや、もんどり打って御庭に転げ落ちた。

「ご無礼つかまつりました。御殿様とは露知らず」

「いやいや、さよう他人行儀は申されますな。兄上をよろしゅうお願いいたしますぞ」

 そう言うたなり、和泉守の胸はふたたび熱くなった。相身互いの馬鹿などではないと思うたのである。

 前につかえたお初の指先は、土の色に染まっていた。旗本の姫君の手ではなかった。兄とお初は丹精こめてこのみごとな御庭を造り、その奇蹟の天然のうちに愛を育んだにちがいなかった。

 それから三人並んで縁側に座り、しばし午下りの景色を眺めた。雲がかかれば雲を映し、風が渡れば風に靡く、正直な御庭であった。

 なれそめを問われて、お初は俯きかげんに語った。

 生まれつき庭いじりが大好きで、番町の屋敷の御庭もおのれの手で造作した。あるとき出入りの庭師から、駒込にあるという天下一の御庭の話を耳にした。柳沢様の六義園ではのうて、そのお近くにある松平和泉守様の御庭だそうな。

 その話が忘られず、昼はわが家の庭のまぼろしに、夜は夢にまで見るなどしたあげく、とうとう辛抱たまらなくなって、女中を供連れに駒込村を訪ねたのだった。

 無理を言うて御庭仕事を手伝わせていただいた。新次郎様と草木の手入れをしているうちに、このお方は人間ではのうて神様だと思うようになった。草も木もその御手のなすがままになり、風も水も、その心に服うからだった。

 もう何もいらない。この御方のおそばにずっといられるのならば、いつか御庭の肥になってもよいと思うた。

 お初の話を聞きながら、和泉守は胸に誓うた。

 この二人をきっと添わせる。そしてとこしえに、江戸中屋敷の庭守になっていただく、と。

(『大名倒産』上  六、中屋敷御蔵内之有様 より)

とはいえ、愛はあっても金はない。どうなりますやら……。

続きは本篇でのお楽しみ!

『大名倒産』試し読み小冊子

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