明智光秀が将軍になれる可能性はあったのか? 大河ドラマの時代考証を担当した著者による「征夷大将軍になり損ねた男たち」から見る異色の日本史

文芸・カルチャー

公開日:2020/1/18

『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一/ウェッジ)

 放送前からスキャンダルに見舞われた今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀は、これまで「三日天下」という不名誉な言葉とともに語られてきた。ただし、織田信長にしても人気が出たのは昭和の戦後になってからのこと。一説によればそれまで江戸時代を通して庶民に人気があったのは、農民の出自でありながら天下を取った豊臣秀吉だったそうで、その秀吉に討ち取られた光秀は天下取りの添え物といった扱いだった。

 それが昨今では人物像が見直されてきており、大河ドラマでどのように描かれるのか楽しみである。とはいえ、評価が見直されたとしても、光秀が天下を取れなかったのもまた事実。失敗から学ぶ人は成長するとも云われていることだし、光秀以外にも多くの残念な人物について取り上げた『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一/ウェッジ)を読んでみようと思う。

 著者はこれまで14作品の大河ドラマの時代考証に携わっており、「征夷大将軍」とはいかなる役職なのかを次のように解説している。朝廷から見て東日本側の蝦夷(えみし)征伐のために任じられる臨時の官職で、大軍を指揮する権限を与えられ、陣営に幕を張った居所を「幕府」と称した。それが時代が下ると、天下における武門の棟梁を「将軍」と略称し、常設の政庁を「幕府」と言うようになった。この後者の「将軍」は鎌倉・室町・江戸の幕府において、39名が歴史上明らかにその職に就いたと云われている。

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 本書は武門の棟梁として君臨することなく、いろいろな意味で「なり損ねた男たち」を選び出し論評した、異色の日本史ものだ。

 実は本書での光秀に関する論評は、多くはない。なにしろ将軍になった人物の陰には、なり損ねた人物もまた多くいるからだ。光秀が信長に反逆した動機や原因については、怨恨説、野望説、室町幕府再興説などさまざまあり、将軍になることが目的だったかはうかがい知れないことではある。が、もし将軍を志し、敗死しなかったとしたとしても、将軍になるには幸運がいくつも重ならないと難しかったようだ。というのも、まず「将軍就任には朝廷とのコネと金」が必要で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を例にすると、朝廷から征夷大将軍を任じる宣旨を伝えた勅使一行を二日にわたって饗応したうえ、引出物と砂金百両を進じ、さらに弓矢や馬のほか糸などの餞別を荷駄三十の隊列に整え送り届けたのだとか。

 俗に三日天下と云われている光秀が実際に敗死したのは、信長を討った天正十年六月二日から十一日後のこと。その間に光秀は、かつて信長の協力のもと室町幕府15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した細川藤孝に自筆の覚書を送ったり、光秀とは親友とみなされるほど親密だった公卿の吉田兼見を通じて朝廷に多額の金子を献じたりしたという。しかし、期待に反して光秀に靡く者は現れなかった。さらに、洛中市民の税を免じても京都の人々の支持を得られなかったようだ。時間があれば、もしかしたら別の機運が訪れたのかもしれないが…。

 信長はどうだったかというと、古い権威を嫌いながらも朝廷を利用しようとしていたそう。台頭してきた信長に官位を与えて公家組織に組み込みたい朝廷側と綱引きしていたというから面白い。また著者は秀吉が将軍ではなく関白になった理由については、通説となっている「前将軍の義昭から地位を譲ってもらおうと画策したが拒絶されたから」というものではなく、出自のコンプレックスがあり朝廷や公家社会への憧れの念が強かったことが、朝廷の序列において将軍職より上位の関白職を選んだ理由だろうと推察している。

 チャンスはあったが征夷大将軍を選ばなかった信長と秀吉を別にすれば、本書における歴史上の人物たちの、将軍職にまつわる悲哀に満ちた境遇に自身を重ねる読者もいることだろう。しかし、義昭の子の義尋や、最後の将軍となった徳川慶喜の前に将軍候補とされた家達などが争いに巻き込まれずにすんだところをみると、将軍にならない人生の方が、かえって穏やかに暮らせて運に恵まれていたのではないかとさえ思ってしまった。

文=清水銀嶺