不妊治療中に、枝野幸男氏が妻にかけた言葉とは――『枝野家のひみつ 福耳夫人の20年』
更新日:2020/2/11
立憲民主党代表・枝野幸男氏といえば、2011年の東日本大震災での姿が思い出される。当時の官房長官として、国民へ被害状況を説明する姿を覚えている人も多いだろう。非常事態に不眠不休で対応していたせいか、日に日に疲労が目立ち始める顔をテレビで見ながら、「彼にも家族がいるだろうに、政治家とは大変な仕事だな」と思わされたものだ。
『枝野家のひみつ 福耳夫人の20年』(枝野和子/光文社)は、枝野氏の妻・和子さんが、代議士の妻としての生活を描いたエッセイ本。本の帯には「ここまで書かれたら国家機密が…!?」という枝野氏の言葉が書かれているが、このエッセイでは妻しか知らない目線で枝野氏との生活をコミカルに描き出している。
元々JALの客室乗務員として働いていたという和子さんは、20年前、枝野氏とお見合い結婚した。第一印象は「真面目で、ちんまりした人」。「代議士の妻になる」という覚悟もないまま、とんとん拍子で結婚が決まった。「代議士の妻」は、選挙活動のお手伝いをはじめとして気苦労が絶えない。震災の時は、「官房長官の妻ならば、メディアに発表していない情報を知っているはず」と考えた人たちから和子さんのもとに連絡が殺到。「もし関東が危険ならそれを聞き出したい」という思惑があからさまだったという。おまけに「枝野は、家族をシンガポールに脱出させた」という根も葉もないデマまで吹聴され、かなりつらい思いをしたようだ。
「私も枝野がいつ帰ってくるか、わからない。けれど、枝野がいなくて、どこかに逃げてもつまらない人生だと思うから、ずっとここにいるよ。枝野が帰ってくるのを待っているよ」
とはいえ、枝野家の悩みは、代議士特有のものばかりではない。もちろん、ごく一般的な夫婦と同じような悩みを抱えることだってある。特に印象に残ったのは、不妊治療についての記述だ。和子さんが不妊治療を始めたのは33歳の時、結婚して4年ほど経った頃。その時から3年あまり、夫妻は不妊治療に挑むことになり、結果、和子さんが36歳の時に妊娠、双子の男の子を出産することになったのは37歳の時だった。まずは人工授精から始めたが、半年後には体外受精に切り替えた。しかし、着床はしても受精卵が定着せず流れてしまう状態が2年も続いた。子どもができるのは「当たり前」のこと。それができない自分は「劣っているのではないか」という劣等感。和子さんに、枝野氏はこんな言葉をかけてくれたという。
「きみとの子だったら、喜んで育てるけれど、無理をしなくてもいいんだよ。子どもができなくても、2人で生きていけばいいんだから」
「代議士の家族」としての知られざる暮らしに驚かされる一方で、どこにでもある家庭の姿に親近感を覚える。和子さんは夫のことを「政治のこと以外、ほとんど何もできない人」と形容するが、その裏には、「多くの人にとってよくなることを」と政治に情熱を燃やす夫への敬意が垣間見られる。愛情深い記述の数々になんだか心があたたかくなる一冊。
文=アサトーミナミ