平成最後の少年死刑囚が脱獄、凶悪犯が思い描いた“まさかの計画”とは――
公開日:2020/2/9
狂気的な事件を起こした殺人鬼が脱獄し、もし自分の身近にいるとしたらどうするだろう? そんな切り口で描かれるミステリー小説は数多くあるが、同じテーマでもこの『正体』(染井為人/光文社)を読み終えた後には、これまでとはまったく違う感情が胸にこみ上げてくるはずだ。
■平成最後の少年死刑囚が脱獄! 彼の壮大な計画とは――
本作は鏑木慶一という、平成最後の少年死刑囚の脱獄を描いた小説。鏑木は18歳の時に埼玉県に住んでいた一家3人を、その家の台所にあった出刃包丁で惨殺。被害者となったのは当時29歳だった夫とその妻、そしてわずか2歳の息子。ただし、この事件は厳密に言うと、“一家”惨殺ではなく、隣の部屋で押し入れに身を潜めていた夫の母親・井尾由子は生き残った。
隣人の通報でかけつけた警察官によって、鏑木はその場で現行犯逮捕される。当初は精神疾患を理由に罪を逃れようとしていたが、その後一転して犯行を否認し無罪を主張。しかし、死刑宣告され、兵庫県の神戸拘置所に収監されることとなった。
そんな凶悪犯だが、ある日刑務官を欺き、脱獄に成功する。鏑木は名前や顔を変え、さまざまな場所に出現するようになる。世間は彼の脱獄を、死刑の恐怖から逃れるための足掻きだと捉えていたが、実はそこには鏑木しか知り得ない“明確な目的”があった…。
脱獄犯に対して怖いイメージを持つことは当たり前だ。罪を犯しておきながら脱獄という手段を選び自由を求める姿に不快感を示す人もいるかもしれない。だが、本作で描かれる鏑木の人物像は、私たちが抱いている脱獄犯の印象とはちょっと離れている。知性が垣間見える話し方をし、他者に対して思いやりを見せるからだ。そんな鏑木の人柄に、登場人物たちは心惹かれていく。
地元で村八分にされ日雇い労働をするようになった元不良少年。長年の不倫による傷が癒えないアラフォー独身女性。夫から舅の介護を押しつけられた主婦。こうした人たちと出会うが、鏑木は素性がバレることを恐れ、一定の距離を保とうとする。しかし、人々は、穏やかなのにミステリアスな鏑木に魅力を感じ、交流を試みようとする。そして、鏑木と関わった登場人物たちは彼との交流を通して、自身が抱えてきた心の傷が軽くなっていく感覚を味わう。だからこそ、彼の正体を知った時に思うのだ。なぜあの男があんなにも残忍な事件を起こしたのか、と――。
各地を転々と渡り歩きながら、警察の手を逃れる鏑木が最後に流れ着くのは、とある介護施設。そこはなんと惨殺事件で唯一生き残った井尾が入居しているグループホームだった。鏑木は井尾に自ら近づき、交流を図ろうとする。その裏には脱獄してまでも成し遂げたかった“壮大な計画”があるのだが…。
事件の背景が明らかになると、鏑木が法廷で語った「自分を褒めてやりたい」という言葉の響き方が一転する。488日の逃亡生活を選んだ鏑木慶一の正体とは? ぜひ、その目で確かめてほしい。
文=古川諭香