セクハラは事件ではなく日常だった。だからこそ、声をあげられなかった――『マスコミ・セクハラ白書』が語る現場の真実

社会

公開日:2020/3/5

『マスコミ・セクハラ白書』(WiMN/文藝春秋)

 2018年に結成されたWiMN(メディアで働く女性ネットワーク)のメンバーたちによる編著『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)。読んでいて胸がつぶれるようなしんどさを覚えたのは、彼女たちの受けてきたハラスメントが“事件”ではなく日常だからだ。――ああ、私はこれを知っている。この違和感と痛みをずっと押し殺して生きてきた。日本に生きる女性のほとんどが、多かれ少なかれそう感じるのではないだろうか。

 印象的だったのは、あるフリーライターの告白だ。10代のころからブスと言われ続けてきた彼女は、50代のときにはじめて、年上の元社員記者からのセクハラを拒絶したことで仕事の妨害を受ける。周囲は守ってくれたけれど、彼女自身は「自意識過剰だ」と笑われることや、親しかったはずの彼の評判を落とすことのほうをおそれた。あなたは悪くない、と言われるほどに苦しくなった彼女はやがて、自分自身が「女」を人間扱いしていなかったことに気づく。もちろん、他の女性を見下していたわけではないし、大切な同志だと思ってきた。けれど一方で、自分は女として低く扱われるかわりに、人間として尊重してくれる人だけがまわりに集まっている、女なんかではなくちゃんとした人間である、とねじれた自尊心を保ってきたのだと。

 セクハラの根深さを、感じるエピソードだった。男性から品定めされることがあたりまえの社会が、こうした捻れを生む。〈「産まない女」は「産む女」の倍働かなければ許されないと感じていた〉という新聞記者の女性もいたが、女としての性的魅力があるかどうか、結婚するかしないか、母になるかどうか、といった基準で女性自身がジャッジすることになじんでしまっているのだ。結婚しない身の上を自嘲気味に話したり、子どもを産まないことに罪悪感を覚えたり。そんなのはすべて個人の自由であるはずなのに、女であること、に無意識に縛られて自分を責めてしまう。だから時に、被害女性のほうが責任を問われる。短いスカートを穿いていたから。迂闊に家になんてあがったから。そしてそれを言うのは、男性に限らない。

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 元テレビ朝日記者の女性は、WiMN結成のきっかけとなった財務事務次官(当時)のセクハラを元同僚が告発したとき、心の底から応援すると同時に、〈これまで器用に隠していた感情が、急に溢れ出て〉きて、冷静でいられなくなったという。本当は自分も嫌な経験をたくさんしてきた、でも声をあげなかった。そのことに気づいたから。

〈相手に媚びすぎず、サバサバと、でも愛想よく、セクハラを「いなす」スキルも自分の強みだと感じていた〉ので、傷ついた過去を自覚することは、楽しくて大好きだった仕事の根幹を疑うことでもあった。自分は結果的に女性であることを利用していたんじゃないか。それがセクハラを容認する風土を育てていたのではないか、と。もちろん彼女は、元同僚に勇気づけられ、告発したことを責めるなんて考えてもいない。けれど、実際に自分が嫌な経験をした、というだけではない痛みや矛盾に直面しなくてはいけないのも、セクハラの一面であり、難しさであると思った。

 人は、自分を善人とは思わなくても、悪人とは思いたくない。あたりまえにやってきたことが、誰かの心を殺すほど傷つける行為だったなんて自覚するのは、誰だっていやだ。自己責任論は、そうしたおそれから生まれるものじゃないだろうか。でも、仮に被害者側に落ち度があったとしても、悪いのは加害したほうだ。いやだ、と声をあげた相手に、無理を強いる権利は誰にもないし、不愉快になったからといって仕事を妨害していいはずがない。

 傷ついていると言ってよかったんだ、怒っていいんだ、と知った女性たちが、いま立ち上がりはじめている。本書にもあるように、過剰な連帯でそこにくわわれない被害者を黙らせることがないよう、声のあげ方には注意しなくてはいけないけれど、たくさんの“声”が集まった本が世に出たことは多くの人を救うだろうし、一読者として、一人の女性として、深く感謝したいと思う。

文=立花もも